大塩平八郎の墓所成正寺

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成正寺は江戸時代後期、当時の幕政を揺り動かし、新しい歴史の契機ともなった大阪大塩家8代目中齋大塩平八郎の菩提寺です。

乱後は当然廃墓となりましたが、お寺が密かに土中に埋蔵しました。

明治三〇年、「中斎大塩先生墓」、大正五年に「大塩格之助君墓」が建立されました。

ところが昭和二〇年三月の大阪大空襲で、本堂・庫裏とともに墓碑も損傷しました。

それらは、戦後昭和三二年に縁者により、元の場所に復元されました。
また、墓地整理中に土中の墓が発見され、安置されました。

「大塩の乱に殉じた人びとの碑」は、昭和六二年、乱一五〇年を記念して、大塩事件研究会員及び全国有志の浄財により建立されたものです。

大塩の乱とは

天保8年(1837)2月19日早朝、大坂東町奉行所の元与力で陽明学者であった大塩平八郎中斎が、飢饉の最中幕府の役人と大坂の豪商の癒着・不正を断罪し、摂河泉播地域の窮民救済を求め、幕政の刷新を期して決起した事件。

奉行所の与力・同心やその子弟、近隣の豪農とそのもとに組織された農民ら約300人を率いて「救民」の旗をひるがえし、天満の自宅から大坂城をめざしたが、わずか半日で鎮圧された。

乱による火災は「大塩焼け」といわれ、市中の5分の1を焼失した。

当時配布された「檄文」は大名から民衆まで密かに伝わり、また、乱の情報は、大塩父子がしばらく潜伏し手配されたため、全国に広く伝わり、幕藩体制に大きな衝撃を与えた。

明治維新の30年前である。
乱の参加者はほとんど捕らえられ、獄中で死亡した者が多かった。

そして檄文は残った

大塩の蜂起の動機と思想は檄文に集約されている。

以下はその要旨である。

「天下の民が困窮すればその国は滅びるであろう。
徳川家康公も“よるべもない弱者にこそ憐みをなす政治を行うことが仁政の基なり”と申されている。

ここ245年の太平の間、上層の者は贅沢三昧で驕りを極め、役人は公然と賄賂を授受している。

私腹を肥やし、民百姓に過分の用金を申しつけている。

我々はもう堪忍できない。
天下のため血族の禍の禁を犯し、有志と申し合わせ、民衆を苦しめている諸役人を攻め討ち、驕りたかぶる金持ちを成敗することにした。

生活に困っている者は金銀や米を分け与えるから大坂で騒動が起こったと聞いたなら一刻も早く大坂に駆けつけてほしい。

これは一揆蜂起の企てとは違う。

また、天下国家を狙い盗もうとする欲念より起こした事ではない。
ここに天命を奉じ天誅を致すものである」

文面からは、大塩が幕藩政治の改革を強く望んでいたことがわかる。

「大塩の乱」の後、厳しい回収令にもかかわらず檄文は民衆によって筆写を重ね、全国に流布した。

そのうち、大塩平八郎の足跡をたどってみたいと思っている。

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