春を呼ぶ修二会のお松明 東大寺2月堂

奈良県

修二会の本業が始まりました。
二月堂の本尊は十一面観音なので、「十一面観音悔過会」とも呼ばれます。
「悔過会」と は、罪を懺悔することによって本尊の力にすがり、目的をかなえてもらうという法会です。

14日間のうちの一日の、それも「お松明」と呼ばれるほんの一部をチラリと見ただけですので、とても「お水取り」を見た、とは言えないのですが。

夕闇が迫る頃お松明の行われる2月堂へ急ぎます。

3月12日の深夜、正しくは13日の午前2時ごろに二月堂の前にある閼伽井屋(あかいや)という建物の中の若狭井から聖水(香水)を汲み本尊に備えます。
これが「お水取り」である。

この水は、若狭の遠敷明神(おにゅうみょうじん)が神々の参集に遅れたお詫びとして二月堂本尊に献じられたと伝えられ、今でも遠敷明神の神宮寺であった若狭小浜市の若狭神宮寺では今もこの井戸に水を送る「お水送り」(3月2日)の行事が行われている。

この籠松明は長さ8m、重さ70kg前後あり、バランスを取るため、根が付けられている。
他の日の松明は長さ6~8m重さ40kg。

籠松明以外は、使われる日の早朝に担ぐ童子自身が食堂(じきどう)脇で作る。
材料は1~2年かけて集める。年々材料の調達が難しくなってきている。

お松明の開始を待つ群衆。
脚立、一脚、三脚、フラッシュはすべて禁止。
フラッシュの禁止は何度注意されても発光する人がおり、以後、何度も何度も注意されていた。

フラッシュ停止の設定のわからない人は撮影しないで下さいと放送されて、やっと収まる始末。
カメラを持つ人が増えた分、マナーの低下が目立つ。

この松明は上堂の松明といわれ、本来は、初夜の行を始めるために練行衆が登り廊を登るときに道明かりとして焚かれるもので、一人の童子が松明をかざして、後に一人の練行衆が続き、入堂された後に、その松明を舞台(欄干)に回り、火を振り回すのである。

また、12、13、14日には達陀(だったん)という激しい行法があります。
これはこの世の邪悪なものを燃え尽くすかの如く大きな松明を振り回し、引きずりまわし、床に投げつけるという荒行なのだそうです。

3月1日の深夜1時から「授戒」が行われる。
戒を授けるのは和上で、和上は食堂の賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)に向かって自誓自戒した後、練行衆全員に守るべき八斎戒(殺生、盗み、女性に接することなど)を一条ずつ読み聞かせて「よく保つや否や」と問いかける。

大導師以下、練行衆は床から降り、しゃがんで合掌し、戒の一つ一つに対して「よく保つ、よく保つ、よく保つ」と三遍誓う。
なお3月8日にも改めて授戒が行われる。

受戒が終わると、1時40分、「ただいま上堂、ただいま上堂」のかけ声にあわせて練行衆は一団となって二月堂に上堂し、木沓にはきかえ、礼堂の床を踏みならす。
これを開白上堂という。

内陣の錠があけられ、扉が開くと、練行衆は内陣にかけいり、須弥壇の周囲を3周し、本尊を礼拝し、内陣の掃除や須弥壇の飾り付けを行う。

2時15分ごろ、二月堂内の明かりがすべて消され、扉が閉ざされる。
堂童子が火打ち石を切り、火をおこす。

この火を一徳火といい、常燈の火種とされる。
2時30分、初めての悔過法要(開白法要)が行われる。
これは3時頃終わり、就寝となる。

明けて正午になると鐘が鳴らされ食堂で「食作法(じきさほう)」が行われる。
正午から約30分、大導師が信者の息災、過去者の成仏などを祈願したあと、一汁一菜または二菜の食事(正食)をとる。

その給仕の作法は独特のものである。
正食の後はその日は食事をとってはならない。
この作法は本行の間、連日続く。
二月堂の本尊は「大観音」「小観音」と呼ばれる二体の観音像で、いずれも絶対の秘仏で練行衆も見ることができない

初夜の大導師作法の間には「神名帳」が読誦される。
これも神道の行事である。
1万3700余所の神名が読み上げられ呼び寄せる(勧請)。

お水取りの起源となった遠敷明神は釣りをしていてこれに遅れたと伝えられている。
また3月5日と12日の2回過去帳読誦が行われる。
過去帳では聖武天皇以来の東大寺有縁の人々の名前が朗々と読み上げられる。
これには怪談めいた話がある。

鎌倉時代に集慶という僧が過去帳を読み上げていたところ、青い衣を着た女の幽霊が現れ、「など我が名をば過去帳には読み落としたるぞ」と言った。
なぜ私の名前を読まなかったのかと尋ねたのである。

集慶が声をひそめて「青衣の女人(しょうえのにょにん)」と読み上げると女は満足したように消えていった。
いまでも、「青衣の女人」を読み上げるときには声をひそめるのが習わしである。

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