梅雨の晴れ間に大仏殿界隈の散策

今年の梅雨は空梅雨かいなと思わせるような天候が続く。
少し曇り空だがかんかん照りでなく過ごしやすい。

近鉄奈良駅の銅像は庶民の味方行基さん。
庶民派の行基が中心になって、東大寺は建立されたのだ。
さらに、東大寺建立を思い立った聖武天皇は、行基ら優婆塞の「手弁当仏教」に感銘を受けていた・・・・

興福寺の東金堂と五重塔を背にして、正面に見えるのが南円堂、その南円堂を左に見て近鉄奈良駅方面にしばらく足を延ばすと、東向通り商店街に向けて、結構な下り坂が現れる。

ここが、天平の風情から、猥雑な平成の世にもどされる「タイムトンネル」だけに、ついつい、そのやや急峻な「興福寺の西側の坂道」の意味や歴史的な重みに、気づくことができない。

興福寺の南側は、やはり急勾配で、その先の猿沢の池から興福寺の五重塔は、見上げるような位置関係にある。
なぜ「興福寺の坂」に注目したかというと、この寺が藤原氏の氏寺であり、かつては「僧兵」が暴れ回ったように、平城京における「藤原の城」だったからだ。
その興福寺の地の利が、この急坂の上に立ってみると、はっきりわかる。

この興福寺の戦略上の意味が分かってくると、興福寺よりも坂を登った先にある巨大な寺・東大寺が、何を目的に作られたのか、そして何故「藤原」が必死に破戒工作を繰り返したのか・・・・・・

古代史謎解き紀行〈1〉ヤマト編より
いつもユニークな説で楽しませてくれる「関 裕二」さんの著作、おもしろいので一読を薦めます。

奈良公園界隈でよく見かれる光景。
せんべいをねだる姿が愛らしい。

転害門
境内西北、正倉院の西側にあり、三間一戸八脚門の形式をもつ堂々とした門。
平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の戦火にも焼け残った寺内で数少ない建物のひとつで、天平時代の東大寺の伽藍建築を想像できる唯一の遺構である。

鎌倉時代の修理で改変されているが、基本的には奈良時代の建物。

この門の位置は大仏殿の西北にあり、吉祥の位置で害を転ずる意から転害門と呼ばれる。
もともとは「碾磑」という字が使われ近くに人の目をひく美しい石臼があったようだ。

平城京の佐保路に面したことから「佐保路門」、源頼朝を暗殺しようとして平景清がひそんだとの伝説から「景清門」ともいわれています

門の中から外へは、真っ直ぐに一条通り。法華寺、平城京へと繋がる。

大仏池まで来ると、一気に視界が開ける。
ここからの眺めは、南大門から大仏殿に至る定番ルートとはまたひと味違い、落ち着いた雰囲気が漂っている。

二月堂へ上がる石段。
両脇の土壁がとても風情があって、東大寺の撮影ポイントの一つでしょう。
こんなところをのんびりお散歩するのもいいですね~

「裏参道」の両側の「塀」は、瓦をランダムに横に入れた構造で、古代の「築地塀」に比べて変化に富み、しかも仕上げの白漆喰が剥げ落ちて暖かい土が露出しているため、崩れた魅力があり趣のある表現となっている。

二月堂の回廊、景色を楽しむ人たちでごった返している。
以外に雑然とした雰囲気だ。

松明があがる石段
「籠松明」を担いだ童子がゆっくりと上り、練行衆が後に続きます。
上堂の松明は練行衆の道明りなのです。

上から眺めるとこんな感じだ。

二月堂の右手(南側)の石段を登り、真っ直ぐ行った突き当りにある手水舎。
大鷲にさらわれる赤ん坊の透かし彫りがあるが、この赤ん坊は後の東大寺の「良弁大僧正」

明治2年(1869)製造の現役約144歳の湯釜(容量45ℓ)。
行事と月一回の講の集まり等に、薪で沸かされる。
煙突がないので使用時には館内が煙とススで満ちます、衣服の汚れに注意と、注意書きが。

二月堂の前に大きな杉の木があります(今は2代目で小さいですが)。
そのてっぺんに赤ん坊が・・・。
若狭の根来というところから、大鷲に連れ去られた赤ん坊です。
この赤ん坊が、「良弁大僧正」となったということで、「良弁杉」として有名。

本堂脇のお百度巡り祭壇。
大観音・小観音は、ともに絶対の秘仏で、修二会の法要を務める練行衆さえもその姿を見ることは許されない。

高さ3.85m、直径2.71mの梵鐘は、大仏完成と同年の752年製。
奈良時代の鐘としては日本最大で、国宝。
重さは26.3トンあります。

二月堂から大仏殿に向かう階段。
緑が清々しい。

手向山八幡宮への参道。
この手向山八幡宮は、奈良時代聖武天皇が大仏の造営をされたとき、これに協力のため749(天平感宝元)年に宇佐から八幡宮を迎え大仏殿の近く鏡池(八幡池)の東側に鎮座したのに始まる。

運慶・快慶により、わずか69日間で造営された仁王像(国宝・金剛力士立像)はあまりにも有名。
昭和63年から5年間にわたって全面解体修理が行われ、天平創建期から向かい会って立っていたことや、山口県で伐採された木材が、約1年程で搬送され、古文書の記述通り、ほぼ70日間で二体同時進行で、造像されたことも証明された。

天平創建時の門は平安時代に大風で倒壊した。
現在の門は鎌倉時代、東大寺を復興した重源上人(ちょうげんしょうにん)が再建したもので、今はない鎌倉再建の大仏殿の威容を偲ばせる貴重な遺構である。

正治元年(1199)に上棟し、建仁3年(1203)には門内に安置する仁王像とともに竣工した。
入母屋造、五間三戸二重門で、ただ下層は天井がなく腰屋根構造となっている。
また屋根裏まで達する大円柱18本は、21mにも及び、門の高さは基壇上25.46mもある。大仏殿にふさわしいわが国最大の山門である。

修学旅行生や観光客でごった返す参道。
東大寺のホームページには「鹿の糞尿の処理に困っています。
鹿に手持ちの菓子などを与えないで下さい。」と書かれていた。
観光資源との兼ね合いで頭の痛い問題だろう。

そういう苦労とは裏腹にあちこちで鹿せんべいが売られており鹿寄せが行われている。

結婚式の行列に出くわし、思わずパチリ。

外人観光客が目立つのも奈良ならでは。

ならまちの資料館で一服のハイキング参加者。

710年に平城京へ都が遷されたとき、飛鳥の法興寺( 飛鳥寺) が元興寺として平城京に移され、この地は「平城(奈良)の飛鳥」 と呼ばれていました。
現在、「飛鳥」という町名は残されていま せんが、「飛鳥小学校」などの呼称にその名を留めています。
この元興寺の旧境内を中心とした地域を「ならまち」と呼んでいます。

ならまちでは八坂庚申堂のくくり猿がどの家にも。

奈良町資料館で見かけた「奈良町しぐれ」歌詞がユニークなので紹介します。。

1. 年をとったら出しゃばらず  憎まれ口に 泣き言に  人のかげ口 愚痴いわず  他人のことは褒めなはれ  聞かれりゃ教えてあげてでも  知っていることでも知らんふり  いつでもアホでいるこっちゃ  「身代り猿」に願います

2. 勝ったらあかん負けなはれ  いずれお世話になる身なら  若いもんに花もたせ  一歩さがってゆずるのが  上手に生きるコツですわ  いつも感謝を忘れずに  どんな時でも へぇおおきに  「一言観音」頼みます  

3. お金の欲を捨てなはれ  なんぼゼニカネあってでも  死んだら持っていけまへん  生きてるうちにばらまいて  というのは表むき  死ぬまでしっかり持ちなはれ  この世はやはり金しだい  ここは奈良町「庚申さん」

4. 昔のことはみな忘れ  自慢ばなしは しなはんな  わしらの時代はもう過ぎた  なんぼ頑張り 力んでも  体がいうことききまへん  あんたはえらい わしゃあかん  そんな気持ちでおりなはれ  「とげぬき観音」助けてね  

5. わが子に孫に世間さま  どなたからでも慕われる  ええ年寄りになりなはれ  ボケたらあかん そのために  頭の洗濯 生きがいに  何か一つ趣味もって  せいぜい長生きしなはれや  「延命地蔵」にすがります

奈良町資料館では奈良町しぐれ たおるを販売しております。【500円(税込)1枚】郵送可能
問い合わせは奈良町資料館 0742-22-5509まで

旧元興寺の本堂が建っていましたが、
1451年の戦火により焼失し、現在は、私設「奈良町資料館」となっています。

大小の「身代わり猿」をくぐり「木戸」を抜けると「仏像」や「民具」があります。
軒先には古い看板がズラリ。

ねこ好きにはたまらないだろうな。


古代史謎解き紀行〈1〉ヤマト編

著者ならではの「足で稼ぐ歴史」の記念すべき第一作目。
古代の政争の舞台となった奈良を歩き、記紀神話の真実、隠された国家のルーツとそのドラマを探る。

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