人形浄瑠璃にふれる

兵庫県

淡路人形浄瑠璃は、江戸時代には徳島藩主の蜂須賀(はちすか)氏の保護もあって大いに繁栄し、18世紀前半の享保・元文(きょうほう・げんぶん)のころには淡路島に40 以上の人形座がありました。

しかしその後、しだいに減少し、現在、活動しているのは “淡路人形座” ただ1座になってしまった。

鎌倉時代、淡路島に大阪四天王寺より舞楽など神事を生業とする楽人が移り住み、その後西宮の戎神社に属したエビスカキから人形操りの人気が高かったため神事を人形操りで行うようになったと考えられています。

最盛期の18世紀初めには40以上の座本が覇を競い、人形役者が千人もおり淡路島のみならず日本全国を巡業し、各地に人形芝居を伝えました。

大阪に出て「文楽」を創始した植村文楽軒も淡路出身です。

文楽と異なり野掛け舞台だったため大きな人形、大きな動作となり、時代物を得意とし、早替りや道具返し、衣装山など淡路独特の演出や演技も派手でケレン味が尊ばれ、気軽に楽しめるという人形芝居本来の雰囲気を残した外題も多く、女性の座員も活躍する舞台は華やかです。

傾城阿波の鳴門 順礼歌の段

十郎兵衛・お弓の夫婦は、徳島の玉木家の家宝国次の刀を探すため、大阪の玉造に住み、十郎兵衛は名前も銀十郎と変え盗賊の仲間に入っていました。

お弓が留守番をしているところに手紙が届きました。
十郎兵衛らの悪事が露見し、追っ手がかかったので、早く立ち退くようにとの知らせでした。

お弓は夫の無事と刀の発見を祈って神仏に願をかけているところに、順礼の娘が訪れます。

国許に残してきた自分の娘と同じ年頃なので、話を聞いてみると両親を探して徳島からはるばる旅をしてきたという身の上を語ります。

両親の名前を聞いてみると間違いなく自分の娘であることがわかりました・・・・・・





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淡路人形浄瑠璃資料館へのアクセス、行き方歩き方

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