近江大津宮錦織遺跡

歴史を訪ねる旅
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宮跡の所在については江戸時代より諸説があり、論争が続いたが、昭和49年からの発掘調査により錦織がその中枢地区であることが確定的となった。

まるで宅地分譲住宅で売れ残った区画地のような空き地が、史跡公園になっている。
住宅街の中で肩身を狭くしながら、存在を誇示している様子はいささか痛ましい。

柿本人麻呂歌碑

玉襷(たまだすき) 畝火(うねび)の山の
橿原の 日知(ひじり)の御代の 生(あ)れましし
神のごとごと 樛(つが)の木の いやつぎつぎに
天(あめ)の下 知らしめししを
天(あめ)にみつ 大和を置きて
あをによし 奈良山を越え
いかさまに 思ほしめせか
天離(あまざか)る 夷(ひな)にはあれど
石走(いわばし)る 淡海(あふみ)の国の
楽浪(さざなみ)の 大津の宮に
天の下 知らしめしけむ 天皇(すめろき)の
神の尊(みこと)の 大宮は 此処と聞けとも
大殿(おほとの)は 此処と言へとも
春草の 繁く生(お)ひたる
霞(かすみ)立つ 春日の霧(き)れる
ももしきの 大宮処(おほみやどころ)
見れば悲しも
万葉集 巻1-29 柿本人麻呂

(畝傍山麓の橿原で神武天皇が即位して以来、代々の天皇は大和で天下を治めておいでであったが、(天智天皇は)大和を捨て、奈良山を越え、どのようにお思いになったのであろうか、田舎であるが近江国近江宮で天下をお治めになった。

天皇がお住まいであった大宮は、ここだと聞いたけれども、大殿は、ここだと言うのだけれども、春草が生い茂るばかりで春日が霧がかっている大宮跡を見ると悲しいことだ)

1895年(明治28年)建立の志賀宮址碑 (滋賀県大津市錦織二丁目)

内裏正殿跡(錦織遺跡第2地点)
こちらの第2地点からは、10基の大型建物跡の一部とみられる柱穴跡が発掘され、昭和62年、史跡指定された。

内裏南門があった第1地点の北89メートルの地点にあり、内裏正殿跡と位置づけられている。

百済復興戦争の敗北は、中大兄政権にとって大変な失策であり、国外に大きな脅威を抱えることとなった。

そのため、北部九州から瀬戸内海沿岸にかけて多数の朝鮮式山城(例えば、筑前にあった大野城)や連絡施設を築くとともに、最前線の大宰府には水城という防衛施設を設置して、防備を固めた。

なお、この遷都の理由はよく判っていないが、国外の脅威に対抗しうる政治体制を新たに構築するため、抵抗勢力の多い飛鳥から遠い大津を選んだとする説が有力である。

万葉集には、柿本人麻呂が滅亡後の近江大津宮へ訪れて往事を偲んだ歌「ささなみの 志賀の大曲 淀むとも 昔の人に またも逢はめやも」が残されている。

なお、跡地はその後「古津(古い港の意味)」と呼ばれるようになるが、延暦13年(794年)11月8日、桓武天皇(天智天皇の曾孫)の詔によって「大津」の呼称に復された。

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近江大津宮錦織遺跡へのアクセス、行きかた歩き方

大津市錦織2-8

京阪電鉄石坂線の「近江神宮駅」から徒歩約3分