夢の跡

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安土築城からわずか3年後信長は本能寺に倒れる。

人間50年
下天のうちをくらぶれば
夢まぼろしのごとくなり


中世宗教勢力との戦いの中で信長が学んだことは、「武力をもって地域支配はできても、人心を掴むためには宗教(信仰)が必要欠くべからざるもの」ではなかったか。

謂わば、大手道は天皇を迎え入れることも含め、権力と武力による天下布武への道であり、百々橋口から摠見寺に至る登城道は仏法の力を利用した人心掌握の道といえる。

一番最初の画像の中央左に見えるのが石仏。

石垣の中に仏像があるのは戦国の城では珍しくないが、大手道のど真ん中にある例は少ない、しかも、数カ所ある。

仏足跡、発掘調査中に三塚っもので天守下の登城路の途中にある。

この先は伝家康館跡。

現在は焼失した摠見寺が再建されている。

信長のおやじの信秀、これはまあ相当の人ですがね。
しかし、信長の弟の信行、信長の子供の信忠、信雄、信孝、みんなアホウですよ。

信長の叔父たちも凡庸人ですよ。
その中で、信長一人だけがあんなふうに偉かったっていうのは、これはやはり血統的に見て、一種の狂い咲きだと思います。  観音寺潮五郎

武田信玄や上杉謙信は、非常に大きな魅力に富んだ人物ですけれども、旧家の名門の生まれですから、それがあるためにどうしても保守的でね中世の匂いをいっぱい持っていた人物です。

それに対して信長は、どこの馬の骨ともわからない。
ちょっと家系をさかのぼれば、織田家なんかどこから出てきたのか、越前から来たなどとともいわれたりして、あいまいな家なんです。

しかも信長の自身の織田家は、織田一門の中でも、端の端に属する家ですから、決していいとこの子じゃない。

それで要するに、当時の貴族、ローカルな貴族がやるべき作法だとか、考え方だとか身のこなしだとか、あるいは物の本の読み方だとかをあまり知らない。

というよりも全然わからないんじゃないですか。

わからないというよりも、信長はわからない場所で、開き直ってしまった人物なんで、だから信玄とか謙信だとかが信長をどう見ていたかってのは面白いですね。
なんか変な奴だったでしょう、印象は・・・・・   司馬遼太郎

安土城天守閣跡。格子状に、基礎土台となる石が埋められています。

地上6階、地下1階、高さ46mの荘厳な天守閣が建っていたと思うと、どうにも見たくなります。
安土城は天正4年(1576)から建造が始まり、天正7年に完成。

そして天正10年、信長が没した直後に本丸、天守閣が焼失した。

彼の家来たちはですね、まあ自分が役に立って、手柄をどんどん立ててるときには、信長が非常によくそれに報いてくれるからいいんですけど、いったん役に立たないとなったら、信長はたちまち取りつぶしますね。

こういうところがね、非常に冷酷な、今の資本家のやり方と同じですよ。
一種の合理主義的な考え方ですが、長い大きな目で見ると、鼻先思案にすぎんですよ。

この時代の目からすると、くるっているのです。
本能寺の変という復讐・・・・手ひどいシッペガエシを受けたのは当然です。
光秀がやらなくたって、だれかがやりますよ。

たしかに信長は近代人の先駆者に違いないですよ、結果的に見てね。

けどねえ、信長自身は計算を立てて、古い時代を破壊し大掃除して新しい時代を迎え入れようという、そういう気持ちはなかったと、ぼくは思うんです。

結果的にそういうことになったにすぎないと思うんです。

「死のうは一定、しのび草には何をしょぞ、一定語りおこすのよ」というのが、彼の愛唱歌の一つだったといいますからね。

古い時代が、古い因縁がつきまとっていて、新しい時代が展開できない。
いわゆる陣痛期ですね。

そういう時期があります。
そんな時にはやっぱり思い切って破壊する、大魔王的人物が出てきて、古いものを破壊することによって、新時代が開けるということが、歴史にはよくあります。

彼の狂信的な性格が、ちょうどその役目を負わされたと、こう思いますよ。

歴史上の英雄は、みなそれぞれの意味で運命の人ですがね、信長においては、とくに運命の人という感じが、僕には強烈ですね。 観音寺潮五郎

おススメは摠見寺(そうけんじ)の三重塔、仁王門を経て下山するコース。

信長は安土城の築城で地域支配と共に天下布武への第一歩とし、城内に摠見寺を建立することで、人心の掌握を図ろうとしたのではないか。

山科言経の日記『言経卿記』の天正10年9月7日の部分には、「阿弥陀寺にて(中略)、天徳院殿前の右府信長公・景徳院殿三位中将信忠など、来る十二日御百ケ日御追善なり」とあり、当時の信長の法名が「天徳院」、信忠の法名が「景徳院」であった様子が伺い知れる。

しかし、天正10年10月の秀吉による大徳寺での信長本葬に際し、信長の法名は「総見院」信忠の法名は「大雲院」と改められたらしい。

生前より信長と親交の深かった阿弥陀寺住職の清玉上人は、秀吉から阿弥陀寺で信長の葬儀を行いたいと持ち掛けられるが、秀吉の心根が信長の御霊を供養することを目的とせず、ただひたすらに、秀吉が信長の後継者であることを世間に宣伝することを目的としていることを見るや、断固として断った潔癖なる御仁である。

どの時期に阿弥陀寺での法名の変更があったのかは解らないが、今となっては清玉上人の心中を知る者もいない。

天守台から西の湖をのぞむ、今は埋め立てられているが、かつては麓まで波が洗っていた。

長篠の合戦で間断なく弾が飛んでいるということを考えたということは、信長が非常に想像力に富んだ人物であることを想像させるでしょう。

一斉射撃の方法は、ヨーロッパでも遥か後に発見されるんです。

信長は日本人で地球が丸いということを最初に納得した人でもある。

一世紀の後、江戸時代の漢学者林羅山は、地球が丸いという説に反駁する文章を残した。
羅山より100年前、信長はバテレンから地球儀の説明を聞いて、素直に納得したという。

信長が、例えば家康みたいな人と比べて、際立って違うのは、家康というのは百姓ですね。
農政だけしか考えられなかった。

米穀経済だけを考えた人で、これに対して信長は商業の方を大事にした。

信長は大規模なかたちで、世間と商売しようとした。
しかし、彼の商業政策の記録は残っていないから、詳しいことは、信長の直弟子であった秀吉のやり方で想像するよりしょうがない。

安土城天守閣の1/20スケール模型。その天守閣については精密な画や図面が残っている訳ではなく、簡単な画しか残っておらず、色々な学者、研究家が推定案を出しています。

この模型と、実大5階、6階もあくまでその一案です。

我々に残された信長の遺品は数少なく、若いころの信長は異様な服装をしたというが、現在残っている彼の具足からは、その「おおうつけ」ぶりをしのぶよすがもない。

本能寺で、反乱を起こした光秀の大軍に囲まれたとき、信長は無駄な抵抗と知りながら、激しい怒りを煮えたぎらせ、あらんかぎりの力をつくして槍をふるったという。

時に享年49歳。

人間50年。
下天のうちをくらぶれば
夢まぼろしのごとくなり

信長の愛誦した幸若舞にうたわれる人間50年の定年に、あと1年足りなかった。

過去の当ブログの信長関連の記事、併せお読みいただければ理解の助けになると思います。
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