万葉集にも詠まれた浜清い難波の海
佃島といえば、全国的には東京都中央区南東部の隅田川河口にある島が有名ですが、今回取り上げるのは大阪の佃島(大阪市西淀川区)です。
淀川の下流部にあたるこの辺りは、難波八十嶋(やそしま)と言われたほど多くの島々がありました。
古くは田蓑島と呼ばれた佃島には難波の海で魚を獲る多くの漁民が生活をはじめました。
島という印象は薄いかもしれませんが、佃島という名前の通り左門殿川と神崎川に挟まれた島(中州)になっていて、大きさは東西約2km、南北約1.5kmあります。
かつては工場地帯でしたが、1970年代以降大工場が撤退していった跡地にはマンションが建ち並び、古くからの住宅地と中小工場、高層マンションなどが混在するエリアになっています。
今は道路になっているが昔はここを「佃川」という川が流れていた。
駅を愛仁会地域ケアセンターの方(駅東側)へ出ると、植え込みの中に田蓑神社御旅所跡の碑があります。
今回訪ねる佃漁民ゆかりの地の碑のある神社の御旅所です。
以下、碑文を書き起こしておきます。
此の地(佃三丁目十二番地附近)は、昔清き波に洗われる難波八十島の一つであり、氏神田蓑神社の渡御の神事が伝えられる旧跡である。
渡御の神事とは、慶応元年まで永年田蓑神社の重要神事として近辺住民の尊崇を集めてきたもので、神社本宮から此の地、御旅所との間約八百米を、報知太鼓を先導に神官、巫子、氏子連に護られた神輿が練りこの御旅所で御休息と神輿洗の神事を営み、夕刻に還幸される儀式であつた。
この神事は慶応二年の水害により中止となり今日に至つた。
今此の地は清き水は変り町のあり様も移つて昔を偲ぶ面影もないが変わらぬ情に篤い人々の平和と健康を願い新しい町の発展を言祝ぎここに碑を建立するものである。
昭和六十一年四月吉日 建立
奉納 医療法人愛仁会 千船病院
見市家と藪床 (佃鍬入の地)
15世紀の半ば、寛正年間に紀氏、見市 氏、芥川氏など17軒の者が協力してこ の地の開発をはじめました。
土地には大 藪といわれる藪の根が四方に延びて、 開発は困難を極めました。「佃鍬入の地」 の碑があるところはかつて見市家の屋 敷があったところで、藪床(やぶとこ)と 呼ばれ、2000坪(6600平方メートル) の土地に米俵100俵を収納する米蔵が あったそうです。
いまでも、見市家には 古文書や古地図など多くの歴史資料が 保存されています。(一般公開はしていません)
佃鍬入の地碑といいます。以下、碑文の書き起こしです。
佃鍬入の地
当地は長禄、寛正年間(一四五七年~一四六六年)に紀氏、見市氏、芥川氏、平岡氏、江川氏、渡辺氏、高岡氏、神田氏、佃氏など十七軒の者が協力して開発せし所なりと、此の所は大藪といわれる薮の根が四方に張りて網の目の如く土地に食ひ入り張りめぐらし土地は堅く開墾を総称して俗に此の地を薮床と云ひし由
「意は薮どころの義なりとぞ」
昭和五十八年四月吉日建立
長禄・寛正年間(1457年 – 1466年)は、室町時代中期にあたります。
調べてみると、この場所はかつて佃を開墾・開発した17家の一つ・見市家の屋敷があったところで、2,000坪(約6,600㎡)の土地に米俵100俵を収納する米蔵があったそうです。
現在、駅前の佃交番西側に見市家があり、同家の所蔵資料館になっています。
左門橋左岸防潮鉄扉
左門殿川と左門橋 元和3年(1617) 、たびたびの洪水を防 ぐため、尼崎城主戸田左門氏鉄(うじか ね)が大規模な改修をしました。
領民が その名を偲んで川に「左門殿」という名 をつけました。
現在のようになったのは 昭和初期で、鉄鉱石、石炭、木材、紡績素 材の重要な運搬航路でした。
田蓑神社
永正八年(西暦一五一一年)に建てられたもので、この年代の鳥居としては型も整っているものです。
同類の鳥居は天王寺区の四天王寺に一基ある様です。
田蓑神社(たみのじんじゃ)
貞観十一年(西暦八六九年)九月十五日鎮座
御祭神(住吉の四柱)
表筒之男命 中筒之男命 底筒之男命 神功皇后
例祭日 秋季例祭 十月十六日 十月十七日
夏季大祭 七月三十一日 八月1日
住𠮷大神は昔、日向の橘の小門の憶原(原文ママ)というところに、お出ましになりました大神で、伊邪那岐大神のお子様の表筒之男命・中筒之男命・底筒之男命の三柱でございます。伊勢神宮の天照皇大神の御兄弟神に当れる神様です。
住𠮷大神は昔、日向の橘の小門の憶原(原文ママ)というところに、お出ましになりました大神で、伊邪那岐大神のお子様の表筒之男命・中筒之男命・底筒之男命の三柱でございます。
伊勢神宮の天照皇大神の御兄弟神に当れる神様です。
佃漁民ゆかりの地
天正十四年、徳川家康公が大阪住吉大社、摂津多田神社に参拝の折、神崎川の渡船を勤めた縁より、後に漁業権の特権を与えられ、また将軍家への献魚の役目を命じられ、佃の人等三十三名と田蓑神社宮司平岡正太夫の弟、権太夫好次が移住した。
当初住居が与えられた安藤対馬守、石川大隅守の邸内に住吉四神の分神霊を奉戴して一時奉祭した。
後に、寛永年間に幕府より鉄砲洲の地をいただき埋め立て造成し、天保元年、故郷の佃村にちなみ「佃島」と命名し移住。
(現、東京都中央区佃島)また、正保三年六月二十九日住吉大神の社地を定め、住𠮷の四柱の大神と徳川家康公の御霊を奉られた。(現、東京佃島の住吉神社)
昭和四十年、佃小学校と東京の佃島小学校とが姉妹校となり、以降毎年交互に訪問、交歓会を開催される。
平成十八年「佃漁民ゆかりの地」碑が、『未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選』に大阪府で只一つ認定される。
徳川家康と佃漁民 天正14年(1586)、徳川家康が大坂住吉大社から摂津多田神社へ 参拝の折りに神崎川の渡船を佃漁民が務めた縁で、家康が江戸幕府 を開いたのちにも特別な関係が結ばれました。
慶長17年(1612)、 将軍家に献魚の役目を命じられ、佃村の庄屋、森孫右衛門と佃・大和 田の漁民34名が江戸に入りました。
彼らに「江戸近辺の海のどこで 漁をしてもよい」という特権が与えられ、さらに日本のどの海でもよ いと拡大され、税も免除されました。
大坂の佃漁民もこの特権を行 使したそうです。
おそらく幕府隠密としての海の監視という役目もあ ったのではと言われています。
江戸に定住した佃漁民たちは、隅田川 河口の干拓の許可を得て造成事業を行い、正保元年(1644)に完成 させ、その土地にふるさとと同じ佃島と名付けました。
今でも大阪と 東京の佃島の交流があります。森孫右衛門の墓は、江戸からふるさ とへ帰って正行寺にあります。
紀貫之も訪れ、佃漁民ゆかりの地となった
平安時代の歌人紀貫之が旅の途中田蓑嶋(現在の佃)に立ちよられ歌を詠まれたのが次の歌です。
境内に歌碑があります。
雨により 田蓑の嶋を けふゆけど なにはかくれぬ ものにぞありける
謡曲「芦刈」の舞台にもなった
謡曲「芦刈」 昔、津の国の難波に仲のよい夫婦がおりま した。
川辺の芦を刈りながら貧しさに耐え暮 らしていましたが、「そなたのような若い女 にこんなみじめな暮らしをさせておくこと はできない」と、男は妻を京にやり、別れて暮 らすことにしました。
女はやがて貴人に仕 え、優雅な生活を手に入れ、見違えるほど美 しくなりましたが、難波の男のことを片時も 忘れられません。
お祓いを受けるという口 実で供を連れて難波へでた女は、芦を刈っ ている男に出会います。
乞食のようにみす ぼらしい男でしたが、それは夫。
すだれの間 から見える高貴な女は、妻。
さて、謡曲「芦 刈」では、ここで男と女が歌を交わして、互い の気持ちを伝え、ともに京へ向かうというこ とになっています。
男「君なくてあしかりけり と思ふにもいとど難波の浦ぞすみうき」(君 と別れて悪いことをしたと思うけれど、芦を 刈って暮らす難波は住みづらいことよ)女 「あしからじよからんとてぞ別れにしなにか 難波の浦は住みうき」(よかれと思ったから 別れたのです。
難波の浦が住みにくいなん て言ってはなりませぬ)しかし、謡曲の原典 になったであろう『大和物語』では、女は泣き 崩れ、男はいずれとも知れずどこかへ去って いきます。
あなたはどちらの話が好きです か。
佃の川岸には、その昔、芦が群生してい ました。
謡曲「芦刈」の碑は田蓑神社にあり ます。
「大和田の鯉つか み」は有名です
大和田住吉神社から神崎川の方向に進み、船溜まりの堤防に上がると水に浮かぶ白天宮が望めます。。
神崎川から分流し て、昔、大和田川が 流れていました。
そ の分岐点が現在の 船溜まりです。
その あたりでは鯉の手 つかみ漁が盛んで 「大和田の鯉つか み」と言われていま した。
一度に6匹の鯉をつかむ技 の持ち主がいて殿様の前で実演 し、鯉屋六兵衛の名前をもらっ たそうです。
大和田川には大和 田街道に新千船橋が架かってい ました(昭和3年~46年)が、そ れはモダンな鉄橋の初代心斎橋 が移設されたものでした(現在 は鶴見緑地西橋に再移設されて います)。
その親柱が住吉神社に 保存されています。
千舟橋を渡り左岸のなにわ自転車道を歩きます。
150mほど行ったところから左に降り、大和田住吉神社に向かいます。
神崎川
丹波からの安威川と北摂からの猪名川が合流して神崎川となり、そもそもは淀川と別の水系でした。ところが淀川の洪水を防止するために、延暦4年(785)、和気清麻呂が安威川と淀川をくっつける工事を行いました。
これによって、京から瀬戸内へ出る航路は神崎川回りが最短コースになり、平安時代から江戸時代にかけて大いににぎわったものです。
千船大橋を渡ると一帯は大和田になります
九郎判官源義経が平家を四国へ追い詰めた戦で住吉大明神に航路の安全を祈願して一本の松の苗を手植えした
判官松の跡碑
元暦2年(1185)、九郎判官源義経が平家を四国へ追い詰めた戦で、大物の浦から軍船を出しましたが、突風にあおられて大和田の浜にうち寄せられました。
その時の義経は住吉大明神に航路の安全を祈願して一本の松の苗を手植えしたという話が残っています。
義経はここから屋島へ再び向かったのです。松の木は沖往く船人の目標として親しまれたそうですが、明治10年(1877)に雷火で焼失しました。
石碑は松の木のあった西淀川高校正門あたりから戦後移設されました。
大和田住吉神社の万葉の歌碑
ここには住吉の大神と神功皇后をお祀りしています。
「和田」は海の意で、大和田は広い海に臨んでいたということでしょう。
その美しい景観が万葉集に詠まれています。
「浜清く浦なつかしき神代より千船の泊る大和田の浦」(詠み人しらず)
「千船」の名前もここから出たのに違いありません。
大和田は神戸の和田岬をさすという説もありますが、『摂津名所図会』には難波の地だということわりが書かれています。
大和田住吉神社
日本100名城巡りを始めて足かけ3年、足でたどった 名城を訪ねる旅
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