和歌山県内4位の人気のお花見スポット 根來寺
OB会の撮影会です、荘厳な名刹を約7000本の桜が覆う根来寺に来ています。
境内にはソメイヨシノやヤマザクラをはじめとした約7000本といわれる桜が美しさを競う。
覚鑁上人(かくばんしょうにん)が高野山に大伝法院を創建したことが始まる
1132年(長承元年)、宗祖覚鑁上人(かくばんしょうにん)が高野山に大伝法院を創建したことが始まり。
その後、現在の場所に移り、南北朝から室町時代にかけて大きく発展していきましたが、1585年(天正13年)に豊臣秀吉が攻め入り、大塔や大師堂などを残して、全山が焼き払われました。
江戸時代に、紀州徳川家の支援により、主要な建造物が再興され、境内は国の史跡、庭園は国の名勝に指定されています。
1976年(昭和51年)から寺域周辺の発掘調査が行われて、往時の根来寺の規模が400万平方メートル余りと壮大であったことが学術的にも裏付けられた。
また、発掘によって陶磁器、漆器、仏具、武器などのおびただしい遺品が出土した。それら遺品は敷地内に建てられた「岩出市民俗資料館」で保管・展示されている。
毎年、興教大師(覚鑁)の誕生日である6月17日の午前中には、40名近くの僧侶が式典を執り行う。
推定年数200年以上、江戸時代後期のしだれ桜。
根来寺のおみくじは小さなダルマに入っていて境内のあちこちにダルマが並んでいます。
「覚鑁上人」について
根来寺のことをよく知るためには、この「覚鑁上人」を知ることがかかせません!
なので、覚鑁上人のことを少し解説します^^
覚鑁上人は、空海が入定して約300年ほど後に現れた高僧で、「真言宗中興の祖」ともいわれ、空海以来の才能の持ち主とも名高かった学僧でした。
仁和寺出身の僧で、そこで密教を学びながら奈良の興福寺や東大寺に留学して南都仏教を学んだり、天台の教えを学んだりして幅広い知識を持っていました。
なので、当時の権力者であった鳥羽上皇も篤く帰依していました。
一方で、その時代の高野山は、カリスマ空海がいなくなってしまってからは徐々に堕落の道をたどっていました。
空海に続くカリスマが出ないことだけでなく、都から遠いということや、さらには落雷による伽藍の焼失という不運もあって、なかなか繁栄しなかった。
その衰えぶりは京都の東寺の末寺になってしまうほどでした。
しかし11世紀に入ると、国家安泰を願う天皇家と摂関家が高野詣を行うようになり、再び高野山に注目が集まるようになります。
そういう時代に現れたのが覚鑁上人です。
覚鑁上人は、荒廃していた高野山の信仰を建て直すため、鳥羽上皇に開基(スポンサー)となってもらい、現在の金剛峯寺本坊あたりに伝法院を開創します。
これによって、経済上のゆきずまりで廃絶していた真言宗の伝法会(仏教の学びの場)の再興を図ったのです。
実はこの伝法院の歴史こそが根来寺の歴史なんです。
伝法会は春秋二季 行われました。
春の「修学会」では法門など教理的なことの談義を行い、秋の「練学会」では春に学んだ経論のあやまりをただす実践修行の談義を行っていました。
これが大成功を収めて学徒が増えたため、新しく大伝法院を建てることになり、さらに自坊であるとともに既に学問を終えた僧侶の修行所密厳院も建てました。
また、大伝法院の開山と同時に、地元の人々から帰依をうける機会も増えたことから、信仰に答えるために葛城山系の山麓に「豊福寺」などの大伝法院の末寺も建立します。
(これが後に根来寺になります。)
覚鑁上人はこのように、名声をあげながら復興の道を歩き続けるのですが、それをおもしろく思わないものたちも現れるようになります。
金剛峯寺側の僧です。
覚鑁上人は、院宣(上皇や法皇の命で発行した文書)によって大伝法院の座主と金剛峯寺の座主を兼任することを命じられるのですが、金剛峯寺の座主職についたことがきっかけで、金剛峯寺側と対立するようになったのです。
覚鑁上人は仁和寺出身の僧なのですが、当時、仁和寺は真言宗寺院の中で王族関係が多く入寺していて、金剛峯寺の上位寺院、という位置付けでした。
金剛峯寺側の立場としては、上位寺院の支配を受けないことを望んでいたので、覚鑁上人が座主職につくことを望まなかったのでしょうね。
ついには覚鑁上人は、反対派の襲撃にあって密厳院を焼き払われ、高野山上から追放されてしまいます。
そして根来寺に移ってきたのです。
しかしその3年後、覚鑁上人は49歳の若さで遷化(亡くなること)してしまいます。
境内には、奥の院になっている覚鑁上人の御廟(お墓)がありました。
扁額には「密厳堂」の文字があります。
根来寺 密厳堂
かつて、覚鑁上人が住まいにされていたお堂が「密厳院」でしたから、まるで覚鑁上人がここにおられるような感じがします。
行者堂(重要文化財)
本尊は役行者を祀り、仏法興隆のための行場となっています。
令和元年に重要文化財に指定されました。
光明殿の隣には、行者堂、聖天堂(しょうてんどう)が並んで立っています。
行者堂には、御本尊として役行者をお祀りしています。
仏法を発展させる行場となっており、令和元年に重要文化財に指定されています。
聖天堂(重要文化財)
聖天池に浮かぶ堂で聖天尊を安置しています。
この堂正面の朱塗の壇が有名な「根来塗」で室町時代から伝わっているものです。
令和元年に重要文化財に指定されました。
境内にある民俗資料館では地域の歴史や文化が継承されている。
過去の訪問記
交通アクセス
公共交通機関で
JR阪和線和泉砂川駅から和歌山バス那賀近畿大学経由岩出駅前行きで16分、根来寺下車すぐ、または岩出駅前行きで15分、岩出図書館下車、徒歩5分
お車でお越しの方
阪和自動車道泉南ICから県道63号を岩出方面へ車で10km、または京奈和自動車道岩出根来ICから車ですぐ。駐車場あり(70台)。
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