木屋町から白川通りへ夜桜の路を彷徨

この記事は誤って消去してしまった記事の再掲です。
画像は2013年3月30日訪問時のものです。

桜も見頃を迎えた京の街、木屋町から白川通りへと夜桜見物としゃれ込んだ

木屋町を流れる高瀬川沿いの四条から五条にかけては約200本の「染井吉野」があり、約1kmの桜並木が続きます。
静かな瀬音のコラボレーションが魅力です。

特に三条通から四条通までを中心に、喫茶店、バー、スナック、料亭などに加え、各国料理レストランなど所狭しと並んでいる。

江戸時代初期(17世紀)、大坂(現在の大阪府大阪市)や伏見(現在の京都市伏見区)から薪炭・木材が高瀬舟に積まれて集まり、材木問屋・材木商が倉庫や店舗を立ち並べるようになったため、「木屋町」と呼ばれた。

江戸時代中期(18世紀)には、この通りを往来する旅人や商人を目当てに、料理屋や旅籠、酒屋などが店を構えるようになり、酒楼娯楽の場へと姿を変えた。

幕末(19世紀)には勤皇志士が密会に利用したため、坂本龍馬や桂小五郎らの潜居跡や事跡の碑が繁華街のあちこちに立っており、大村益次郎や本間精一郎、佐久間象山などが殉難している。

京都なみだ色 あなた失くした町
蒼い日暮れが来て 想い出が消える
恋を奪った 白い羽織の
木屋町の女
ああ あなたが逃げてゆく 石だたみ

青江三奈の唄が思い出される。

木屋町もやがて四条通りに突き当たる、右側はスモーカーのための喫煙場所。

白川通に来ました、入り口付近は人の波。
通は桜の回廊と化していました。

石畳の道に古い京町家が立ち並び、昔ながらの京の風情が感じられる祇園新橋白川です。

白川通(しらかわどおり)は、明治末期から昭和初期にかけて整備された、京都でも比較的新しい通りです。
通りの名前は、実際にこの地域を「白川」という川が流れていることに由来しています。

祇園での白川はクランク状に流れているため、東大路通と花見小路通間を東西に流れる白川沿いの通りが白川北通、巽橋から縄手通までが白川南通に分かれています。

特に白川南通の巽橋から大和大路通(縄手通)までの区間の大部分は、北側の新橋通とともに、重要伝統的建造物群保存地区(祇園新橋伝統的建造物群保存地区)として選定されており、昔の情緒が残っている。

石碑にも書いてある通り祇園 白川「十六夜桜」って言うんです。

吉井勇が「かにかくに 祇園はこひし 寝るときも 枕の下を 水のながるる」と詠ったのもこの辺りにあった料亭でのこと。

この白川沿いの石畳の道は昭和20年頃まではなく、お茶屋が立ち並んでいたそうです。
祇園白川に「大友」あり「大友」に「お多佳さん」ありというぐらい有名なお茶屋がその中にありました。
「大友」には、夏目漱石、谷崎潤一郎ら有名作家や画家が多く訪れたそうです。

「大友」のあった場所には「かにかくに」の歌碑がある。
谷崎潤一郎ら数名が吉井の古希の祝いに建立したそうです。
毎年十一月八日には「かにかくに祭」が祇園甲部お茶屋組合によっておこなわれています。

古い町並みが素晴らしい花見小路南側ですが、その歴史は以外に新しく、今に言う祇園町南側一帯は明治までは建仁寺の寺領で、明治 初期の廃仏毀釈によって寺領が狭められ、明治7年に祇園甲部お茶 屋組合が7万坪を買い上げ、花街として整備された。

粋な着物姿の女性を見かけるのもこの通りならでは。

ひょうたん池のそばにある、2代目祇園枝垂桜(正式名は「一重白彼岸枝垂桜(ひとえしろひがんしだれざくら)」)のあでやかな姿は、見る人の心を奪い、時間を忘れさせてくれる。

初代は昭和22年に樹齢220年あまりで枯死し、その初代の種子から大切に育てられた桜が、現在樹齢85年を数える高さ約12mの大木に成長しています。

いきなり古都にふさわしくない派手なオートバイの集団が・・・・興ざめ。

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