灯籠が並ぶ石畳の参道は圧巻
灯籠が並ぶ石畳の参道を進むと、その先で出迎えてくれるのは石造りの「一の鳥居」。
石造りの鳥居としては、国内でも特に背の高いものとして知られている。
実はこの「一の鳥居」は、もともとは近鉄生駒駅の近く(参道の入口)に建っていた。
昭和50年代の駅前再開発事業により、現在の場所に移築されたのだ。
故に一の鳥居ながら、二の鳥居よりも本堂に近い場所に建っている。
お寺なのに鳥居?
明治維新以前まで日本では仏教の寺院と、神を祀る神社が「ごちゃ混ぜ」になった神仏習合(しんぶつしゅうごう)という考えが一般的でした。
そのため神社の境内にお寺があったり、お寺の境内に神社があったりしました。
しかし明治維新の頃、神仏分離令という政策が始まると廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)という考えが広まり、外国から伝来した仏教を廃止する運動が盛んになります。
このときに多くのお寺や仏像が破壊され、お寺と神社がはっきりと区別されるようになりました。
寳山寺の場合、江戸時代に京都の皇室や徳川将軍家、大和国(やまとのくに・今の奈良県)の郡山藩(こおりやまはん)などが厚く信仰していたおかげで被害が少なく、神仏習合の名残を色濃くとどめていると考えられます。
当山の寺号は「寳」(内部が「珎」のもの)を本来としているが、授与品などで新字体「宝」も併せて用いられている。
鳥居の大しめ縄は、毎年12月16日に新しいものに入れ替えて新年を迎える。
鳥居の前に立って、木々の隙間からのぞき見るまちの景色も味わい深い。
役行者が開いたとされる修験道場で、空海(弘法大師)も修行したと伝わる。
生駒山は伝承によれば斉明天皇元年(655年)に役行者が開いたとされる修験道場で、空海(弘法大師)も修行したと伝わる。
その当時は都史陀山 大聖無動寺(としださん だいしょうむどうじ)という名であったという。
江戸時代の延宝6年(1678年)に湛海律師が再興するが、この時が事実上の開山だと思われる。
延宝8年(1680年)正月には村人や郡山藩家老らの援助により仮本堂が建立され、後には大聖歓喜天を鎮守として祀った。
貞享5年(1688年)には新本堂が完成して伽藍の整備が終わり、寺名を寳山寺と改めた。
大聖歓喜天を祀る寳山寺は商売の仏神として古来大坂商人を主に信仰が厚く、現在でも毎月1日と16日の聖天縁日、特に毎月1日には、月が変わる未明より数多くの参拝者で賑う。
京都の皇室や江戸の徳川将軍家、郡山藩主柳沢家からの祈願もあり、聖天信仰の霊場として有名であった。
参詣者が多いため、1918年(大正7年)には日本最初のケーブルカーである生駒鋼索鉄道(現・近鉄生駒鋼索線)が敷設された。
現在でも年間300万人の参拝客を集めるとされる。
麓から続く参道の階段は奥の院まで含めると1,000段余りあり西日本有数の規模を誇る。
「惣門」の正面にある階段の途中に、「地蔵堂」がある。
ここに並ぶのは、福徳地蔵尊像や融通観音像など6体の石像。
福徳地蔵尊像と融通観音像は宝山寺ができた当初に寄贈されたもので、そのほか4体は昭和に入ってからこの場所に居られるとの こと。
この融通観音像、実は双子だという。
といのも、まったく同時期に制作された、よく似た姿のもう一体の融通観音像があり、そちらは奈良市三碓の添御県坐神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)に居られると伝えられているそうだ。
直線距離で約5kmほどの場所から、互いが互いの方を向き合うかたちで立っているという。
確かに、この場所から融通観音様が見つめられている視線の先には、奈良市のまちを見渡すことができる。
歓喜天が持っている巾着を模した賽銭箱。
歓喜天の好物で、食べると身が清められる大根の絵柄が彫られている。
実はこの木製のぴかぴか光る福財布、お賽銭箱なんです。
胴の部分には「交差した大根」の紋が。
この賽銭箱は、御本尊の聖天さん=大歓喜天が持っている「砂金袋」と歓喜天の大好物で、食べると体内が浄化されると言われる大根を組み合わせてデザインされているのです。
お財布を賽銭箱にこすりつけてご利益を、ダイレクトにお財布に頂こう
このお賽銭箱前で不思議な風景に出会います。
やけにお財布が目につくのです。
お財布ごと賽銭箱に入れるの…、まさか…。
よく見ていると、お財布を賽銭箱にこすりつけています。
そうなんです。こうすることで聖天さんのご利益を、ダイレクトにお財布に頂こうというものなんです。
信じるかどうかは人それぞれ。
本堂の少し手前には「天神」も。縁のある牛の像がたくさん奉納されている。
般若靴は「中生代、古瀬内火山に属する一火山の噴火口類」とされる自然の岩屋
般若窟は、由緒書によれば「中生代、古瀬内火山に属する一火山の噴火口類」とされる自然の岩屋である。
この窟は、役行者が修行して大般若経を納めたと伝えられる聖跡で、また、若かりし頃の弘法大師が修行したという伝承も付帯していたことから、それを聞いた湛海律師が「ここで弘法大師と共に弥勒菩薩下生の時を待つ」と語り、寺を開いたと伝えられる。
実際のところは不明であるが、湛海律師が入山した時、般若窟の頂上で古い五輪塔がすでにあるのを見たという。
般若窟の平坦地でも、弘安5年(1282年)の銘が入った石塔が発見されている。
この多宝塔は、1957年に建てられたもので、おおむね鎌倉時代の様式で、細部は桃山様式などにのっとって建設されたという。
オオデマリがきれいに咲いている。
地蔵道の素晴らしいところは鬱蒼と茂った木立から降り注ぐ斜光、これがたまらない魅力。
奥の院へ続く地蔵道をゆっくり歩こう。
宝山寺が山肌に沿って建てられていることを実感できるのが、聖天堂から続く坂道を登り、文殊堂を越え、延命水を過ぎて、苔むす山道にお地蔵様がずらっと並んでいる地蔵道。
奥の院へと続く道。
この道を行く人は、袋いっぱいの一円玉を手に、一つ一つお顔が違うお地蔵様にお賽銭をささげ、丁寧にお参りしながら進んでいかれます。
熱心に参拝される方の多さに驚かされます。
道の途中には大師堂や子安地蔵もありますので、一歩一歩ゆっくりと楽しみながら進もう。
階段を登切り…「奥の院本堂」に到着です。
シャガがきれいに咲いている、ここでも斜光が見事。
奥の院の、もともとのご本尊は、開山湛海律師自らが作ったと言われている不動尊でしたが、江戸時代末期の失火で残念ながら全焼してしまいました。
今あるご本尊は、新しく作られたものです。
画像は「開山堂」、宝山寺開基である、湛海律師像が祀られています。
この裏に開山廟がある。
過去の訪問
生駒の聖天さん
寳山寺と近鉄創業期
1914年(大正3年)4月30日に現在の近畿日本鉄道(近鉄)の直系母体会社である大阪電気軌道(大軌)が初の路線である上本町駅(現・大阪上本町駅) – 奈良駅(現・近鉄奈良駅)間の路線(現、近鉄奈良線)を開業させた際、生駒山の麓に生駒駅が開設されて寳山寺の参詣者は大幅に増加したといわれる。
しかしその生駒山を貫く生駒トンネルの莫大な開削費用負担や、沿線人口が少なく観光客頼みであった輸送が雨天期になって減少したことで、大軌は「大阪天気軌道」と揶揄された。
開通して間もない6月下旬には、社員給料の支払いはおろか翌日に使う切符の印刷費も出せないほどに財政が窮乏した。
同社の取締役の一人であった金森又一郎(後、同社の代表取締役・社長)は夜遅く寳山寺に向かい、寺に乗車券10万枚と引き換えに賽銭を貸して頂けないかと頼み込んだ。
その結果、当時の管主は「大軌が開業する際に寳山寺が生駒に駅を設けることを請願したため、貴社は生駒トンネルの建設に苦しむこととなった。
よって当寺にも大軌の苦境の責任がある。
力になれるならぜひとも」として、快く資金を都合してくれたという話が残っている。
この賽銭は給料にも回されたため、当時の大軌社員の給料袋はズッシリ重かったという。
今も寳山寺には、金森の書いた借用証書が残されているという。
また、日本初のケーブルカーが生駒に開業した要因の一つには、上記の話に対する大軌の礼というものもあったといわれる。
アクセス
近鉄奈良線及び生駒線「生駒駅」下車・ケーブル線「鳥居前駅」~「宝山寺駅」下車・徒歩6分
日本100名城巡りを始めて足かけ3年、足でたどった 名城を訪ねる旅
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