上之社は、神武天皇紀元二年に創建されたとされ、石切劔箭神社の最初の鎮座地とされています
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創建年代は、火災により社殿及び宝庫が悉く消失したため詳らかではないが、代々の社家「木積」家には、皇紀2年に生駒山中の宮山に可美真手命が饒速日尊を奉祀されたのを神社の起源とし、崇神天皇の御世に現本社に可美真手命が奉祀されたと伝わる。
現在確認できる文献では、日本三代実録(巻十一)に「貞観7年(865年)9月22日に河内国正六位の石切劔箭神社従五位下を授く」との記述がみられ、延喜式神名帳にも「石切劔箭命神社二座」とみられる。
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下之社について
その後、可美真手命(うましまでのみこと)をお祀りするため下之社が創建されました。
「でんぼ(腫れ物)の神様」 石切劔箭神社
崇神天皇の時代には、下之社(現在の石切劔箭神社)が建てられ、両社は「石切劔箭命神社二座」として祀られています。
上之社は、現在の石切劔箭神社の本社から離れた場所に位置し、江戸時代には牛頭天王を祀る神社として知られていましたが、明治以降は本社への合祀が繰り返され、現在は独立した神社として存在しています。
神武紀元2年、生駒山頂に程近い宮山という地に饒速日尊(にぎはやひのみこと)をお祀りしたのが、石切劔箭神社の始まりとされています。
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明治時代の神社合祀政策によって、上之社は下之社に合祀されなくなりますが、跡地には崇敬する参拝者が絶えませんでした。
そのため、昭和47年に上之社は再興され現在に至ります。
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ご利益は病気平癒で、大阪では「でんぼの神様」と呼ばれて人々に親しまれている神社です。
「でんぼ」とは関西弁で、できもの・腫れ物を意味し、最近ではガンとも解釈されています。
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八代龍王社
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八代龍王社由来
お参りを終え、少し下ったところには「八代龍王社」がありました。
創建の由来は詳しく分かっていないとのこと。
石切を流れるは池にちなんで祀られているのでしょうか。
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小さくてかわいらしい亀の置物が祠の前に並んでいます。
心願が成就した喜びと、感謝の気持ちが綴られた紙がお腹の穴に入れられるようになっている亀です。
受付で購入し、こちらの祠の前に置くとあなたに代わって神様へ感謝しつづけてくれます。
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婦道神社御祭神・弟橘姫命は、嵐に合った夫の日本武尊の無事を祈るため、自分の体を海に投じました。
御炊屋媛は夫・饒速日尊とその兄君との仲を取り持ち、力を合わせて国造りができるよう努めた方です。
献身的な愛情や生き方、和を尊ぶ心など女性にとってふさわしい生き方を導いてくださる神様として祀られています。
女性の神様が祀られている先入観もあってか、柔らかくて優しい気持ちになれる神社です。
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婦道神社由来
池のすぐ横に「婦道神社」がありす。
弟橘姫命と御炊屋媛が祀られています。
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登美霊社
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路の突き当たりに建つちょっと変わった形の建物で、中には祭壇が設えられている。
信徒会館とも思われるが詳細不明
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ここがもともとあった上之社の址、神武紀2年・・・今から2600年以上も前の話。
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【上の社】
社殿は、道路脇からの参道石段の上に鎮座する。
当社に伝わる古書・“遺書伝来記”に、
「神武天皇紀元2年、現生駒山中の宮山にニギハヤヒ尊を奉斎申しあげたのをもって神社の起源とし、・・・」
というように、当社の起源となる宮山だが、その創建時期は不詳。
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先述のように、明治以降、本社との間で合祀・分離を繰りかえしたが、昭和47年(1972)、氏人の要望を受けて現在地に再建され:今に至るという。
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境内中央に拝殿が、その背後の山腹・覆屋の中に本殿(桁行二間一尺・梁行二間二尺)が鎮座する。
元は本殿のみだったようで、拝殿・社務所は昭和47年の新築という。
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境内中央に拝殿が、その背後の山腹・覆屋の中に本殿(桁行二間一尺・梁行二間二尺)が鎮座する。
元は本殿のみだったようで、拝殿・社務所は昭和47年の新築という。
拝殿後方に建つ本殿は銅板葺の隅木入春日造。
ガラス張りになってます。
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神社の真ん中に石が祀られています。
石切神社はどんな強固な岩でも切れ、刺し貫くことの出来る剣と箭をご神体としているので、その剣で切った岩なんでしょうか?
この石の由来は分かりませんでしたが、石切にふさわしい堂々とした雰囲気を感じます。
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石切劔箭神社上之社由来
説明を見てみると、「神武紀元2年」と書かれており、今から約2600余年前に創建されたようです。
長い歴史を誇る神社であり、石切神社の奥の院といった感じでしょうか。
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神武東征の原因、なぜ大和を目指したのか?
神武天皇は日向では国を治めるには不便であると判断し、「日が昇る東の地」こそ理想の統治地であると考え、大和への遠征を決意します。
竹渕神社由来
竹渕の由来
なんと神武東征に遡る。
神武東征と長髄彦の謎
長髄彦
古事記・日本書紀に於いて、神武東征の場面で、大和で東征に抵抗した豪族の首領として描かれている人物。
大和国の鳥見の白庭山に住む天津神・饒速日命(にぎはやひのみこと)に仕えており、自身の妹を嫁がせていた。
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神話では、神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと、後の神武天皇)らの軍を孔舎衛坂(くさえのさか)で迎え撃ち、この戦いで神倭伊波礼毘古命の兄の彦五瀬命(ひこいつせのみこと)は矢に当たって負傷し、傷を伊勢の海で洗い療養したが、甲斐無く後に死亡している。
後に再起した皇軍と再び戦うことになるが、この際飛来した金鵄が神武天皇の弓弭に止まり、長髄彦の軍は眼が眩み、戦うことができなくなった。
最期
『日本書紀』によると、饒速日命の仲裁により、自己の正統性を主張するため互いに神璽を示し合ったが、長髄彦はなお従わず、抗戦姿勢を貫いたため、饒速日命の手によって殺されたとされる。
(『古事記』では特に討伐の場面もなく、邇芸速日命が神武天皇に服属したとされている)
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