淀川左岸を行く 澪標住吉神社

大阪府

延暦23年遣唐使の一行が航海の安泰を祈願し住吉四柱神を奉祀。


澪標住吉神社は新淀川左岸河口近く、伝法駅の東約250mに鎮座しています。

この大鳥居は、航海を終えた船主が奉謝のため献納した帆柱を材料として、次々と建立したものです。
後、昭和九年の室戸台風によって倒れ、現在はコンクリートの大鳥居に改まりました。

延暦23年(804年)遣唐使の一行がこの島の景勝に感じて、航海の安泰を祈願するために島の一角に住吉四柱神を奉祀。

島民が祭壇跡に祠を建立して帰路の印に澪標を建てたという。


島民が祭壇跡に祠を建立して帰路の印に澪標を建てたという。

明治の中頃まで、当社の南にあった浜辺に、大きい「澪標」があり、二基の燈籠が水面に映え、樹木を背景にに朱塗りの大鳥居が建ち、誠に厳かだったといいます。

これが社名の由来です。

難波がた 何にもあらず 身をつくし
ふかきこころの しるしばかりぞ

(後撰集 950年頃)

明治27年大阪市会では、商業都府の根本は港で、船に基づくとの理由から、市章を澪標と決定しました。

豊臣秀吉が大阪城を築いてから、各種酒造の本場となり、江戸時代には樽廻船が遠く江戸・東北・北海道にまで販路を伸ばすようになりました。


参道の様子。

豊臣秀吉が大阪城を築いてから、当地は「伝法口」として賑わい、また良質の水に恵まれていたために各種酒造の本場となり、江戸時代には樽廻船が遠く江戸・東北・北海道にまで販路を伸ばすようになりました。

それと共に当神社は、土地の守護神として、また航海、交通の神として崇敬され奉幣あいつぎ社殿・境内も大いに改まりました。
このことは現存する社殿・石燈籠・こま犬等によってもうかがいしれます。

荷役の沖仲仕が「力」を競った神勢力=力石(150kg)


力石

伝法は古来より瀬戸内海より大坂への入口として賑わっていましたが、江戸期には樽廻船の発祥の地となり、江戸幕府最大の船奉行所のあった所です。

荷役の沖仲仕が「力」を競った神勢力=力石(150kg)が祭ってあり、入口左と境内には「澪標」があります。

力石の由来

蘇民将来の護符


旅の途中で宿を乞うた武塔神(むたふ(むとう)のかみ、むとうしん)を裕福な弟の巨旦将来は断り、貧しい兄の蘇民将来は粗末ながらもてなした。

後に再訪した武塔神は、蘇民の娘に茅の輪を付けさせ、蘇民の娘を除いて、皆殺しにして滅ぼした。
武塔神はみずから速須佐雄能神(スサノオ)と正体を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたとする。

蘇民将来の護符は、避疫の利益があるとされ、スサノオ(牛頭天王)と縁の深い寺社で頒布されている。

護符は、紙札、木札、茅の輪、ちまき、角柱など、さまざまな形状・材質のものがある。
また、単に「蘇民将来」といえば護符そのものを指すこともある。
護符には「蘇民将来子孫也」「蘇民将来子孫之門」といった文言や、晴明紋が記されていることが多い。

家内安全や無病息災のお守りとして門口に吊されたり、鴨居に飾られるなどする。
八坂神社や信濃国分寺八日堂で頒布されるものが特に有名である。
また、金神や歳徳神同様、蘇民将来も方位神として陰陽道に取り込まれ天徳神という名で呼ばれている。

事平社 本殿

拝殿前の狛犬 寛政七年六月吉日(1796年) 傷みがひどくなってきているのが気になります。
大切にして欲しいですね。

合社・十三社 御祭神

船玉神・大國神・春日大神・大海神・釼大連守屋・大直日神・蛭子神・少名彦神・宇賀御魂・菅原道眞公・猿田彦神

当社「御本殿」は、文久年間(江戸時代、3年5年13年等の説があります)に建てられ「四間流屋造り」の非常にめずらしい造りで、その大きさ(規模)と共に貴重な建造物であります。

中世には京へは大物の浦より神崎川を遡行して寂れたが、豊臣秀吉の大坂城築城では伝法口として湾内随一の要津となり、また、水質にも恵まれ、灘五郷に先駆して酒造の本場となり、徳川時代には樽廻船で販路は江戸・東北・北海道に及び、航海の守護神として崇敬された。

伝法町の澪標住吉神社の道を挟んで前に旧鴻池本店・本宅が建つ。


伝法町の澪標住吉神社の道を挟んで前に旧鴻池本店・本宅が建つ。
いずれも1910年(明治43年)の竣工。内部は一般公開されていないが、外観を見る限り、これらの建物は保存状態が大変良い。

この鴻池家は、雲州富田城尼子氏の旧臣山中鹿之助(幸盛)の次男新六を始祖とする、鴻池善右衛門一族のいわゆる鴻池財閥とは関係が無いようだ。

当地の鴻池は大阪のゼネコンである鴻池組の前身で、1871年(明治4年)鴻池忠次郎が父の廻船問屋を引き継ぐとともに、土木や建築の事業場や製造業などへ人員を供与する、いわゆる労務供給業を開始。

1880年(明治13年)伝法の地で仲間業および運輸業を開始。
1918年(大正7年)株式会社鴻池組を設立。
1945年(昭和20年)には運輸部門を鴻池運輸株式会社として分離し、鴻池組を建設業専業として、現在に至っている。

「アールヌーヴォーの館」と呼ばれている。


旧鴻池本店。
木像2階建。
「アールヌーヴォーの館」と呼ばれている。
昭和43年(1968年)に本社・本店社屋「鴻池ビル」が完成するまで本店として使われた。

本店に隣接して建つ本宅。
創業者鴻池忠次郎氏の居宅として建てられた。
建物の雰囲気は、幕末から明治にかけての商家の様式を残している。

アクセス

阪神西大阪線伝法駅下車東へ100m