この神社は長吉出戸小学校と道路を挟んで北西に鎮座しています。
左右に玉垣が立ち並び、鳥居が建立された入口から参道に入ると左手に神池(現宮池・旧周濠)があり、その奥に社務所、境内入口には注連柱が立っています。
境内を右に曲がると左から朱の鳥居が立つ稲荷社?、拝殿、境内社の順に鳥居や建物が建ち並んでいます。
「竹渕」という名の由来は、東征中の神武天皇が大和の豪族である長髄彦に追われた際に身を隠し難を逃れたのが、この地にあった大竹藪の渕であったことに由来するという伝承が残っていますが、現在、地名の竹渕は「たけふち」と読み、神社と小学校は「たこち」と読むようです。
いまからおよそ2700年前。
初代天皇・神武天皇が、日本を治めるために大和国橿原を目指していたとき、生駒山で強大な敵に襲われました。
痛手を負った一行でしたが、この地の大竹薮の中に身を潜め、危機を免れたと伝えられています。
その霊跡に天照大神をお祀りしたのが、現在の竹渕神社です。
のちに神武天皇となる「磐余彦」、日向国を出発してから何年もの歳月を費やして、大和国に入るべく河内国に上陸。
まずは生駒山地と金剛山地の境目「龍田越え」を敢行するが道険しく断念。
次に「暗峠越え」もしくは「磐船街道越え」を目論んで、生駒山地沿いを北上した。
現在の東大阪市日下あたりで、待ち構えていた長髄彦軍と遭遇し戦となる。磐余彦軍は完敗し退却を余儀なくされた。
長脛彦は執拗に追いかけてくる。おそらくは古大和川沿い、平野川沿いを逃げただろう。
ちょうど、この地に来た時、大きな竹藪を発見。磐余彦軍は竹藪に隠れ込む。
長髄彦も竹藪に入り、磐余彦を探す。
竹藪の中には大きく深い淵があった。さてはこの中に潜んでいるのだろうと、長髄彦はその淵に部下を潜らせて探させた。しかし、磐余彦はどこにもいない。
長髄彦は、これは神の仕業かと恐れおののいて退却していった。
磐余彦はこの地にしばらく逗留した後、熊野から大和に入るべく東征を続けたという。
「竹藪の中の淵」だから「竹渕」である。
竹渕神社由来書 より
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