OCATムービングウォーク、写真をやる人なら知らない人はいないくらい有名。
OCATの外部階段。
奥にはライフがあり、その奥にはJR難波駅がある>
知る人ぞ知る、JR難波駅前のポンテ広場。
ここはストリートダンスのメッカ、 いつ行っても若者が集まっています。
ここも、写真をやる人なら知らない人はいない、配置換えをしたようです。
道頓堀ホテル、世界の4大民族の顔をモデルにしているそうです
大阪道頓堀のパワースポット「出世地蔵尊」。
インバウンド復活で賑わっています。
松竹座、テラコッタを使用したネオルネッサンス様式の正面大玄関の特徴あるアーチを持つ劇場建築は1923年(大正12年)に竣工する。
ミナミで最もにぎやかな場所。
ネオンが灯る頃、最もきれいになる。
1972年(昭和47年)には、この街の名を取り入れた歌謡曲「宗右衛門町ブルース」(歌:平和勝次とダークホース)が発売され、200万枚の大ヒットを記録した。
それ以前にも1967年発売の「大阪ブルース」(歌:奈美悦子)や1970年(昭和45年)発売の「大阪流し」(歌:フランク永井)などの歌詞に宗右衛門町が登場しているが、曲名に用いられた例は珍しかった。
宗右衛門町の幽霊ビル、半分は駐車場になったがあと半分残る。
なんばに向かう途中で、織田作之助・女三部作で名の知れた「太左衛門橋」。
橋の東南角で歌舞伎小屋を開いた興行師・大坂太左衛門に因んで「太左衛門橋」と名付けられた橋で、架橋年数は不明なれど橋の架かる道頓堀川の北が遊郭、南が芝居小屋と有ってそれを結ぶ橋と有っては恐らく興行師の太左衛門たちが掛けた橋なんでしょうね。
インバウンドの集中する場所、この東側の堺筋がバスの待機場所になっている。
大正から終戦まで楽器屋さんを営んでいたそうです。
それが戦後に「食べもの」を扱う商いがしたいと考えて始めたのがそもそもの始まりだそうです。
お店の目印となっている「宵待ち柳」は、恋人同士の待ち合わせスポットとして先々代が命名し、今では4代目!
「今井」の歴史は古い。200年前の江戸時代から、「稲竹」という名で芝居茶屋を営んできたが、大正期に楽器店に転業。第二次大戦時に店は全焼し、昭和21年にまた転業した。これが現在に続く「道頓堀今井」で、今井社長はうどん店としての三代目にあたる。
今井の脇の狭い路地を入ればかの有名な道頓堀の隠れスポット 浮世小路。
うどんの「今井」の前身「今井楽器店」があり、昭和初期・大大阪時代のモガ、モボが粋を気取ったカフェの店内風景も見え、吉本興業の昔の劇場「花月亭」の前を通ると出囃子が聞こえます。
「一寸法師大明神」のおみくじはよく当たると大人気、広い境内に本堂や不動さんがある昔々の法善寺・・・・・・、大正ロマンがあふれ、懐かしい昭和の匂いがにじむ「観光路地」、道頓堀に来られたらぜひ立ち寄ってください。
法善寺横丁の看板、西側:藤山寛美東側:桂春団治の筆。
月の法善寺横丁の石碑の向かい、正弁丹吾亭の入り口の隣には織田作之助の文学碑が残っています。
時代は流れ、「法善寺横丁」という名を全国に知らしめたのは、大正時代を生きた文豪たちがきっかけだそうです。
織田作之助の代表作「夫婦善哉(めおとぜんざい)」や長谷川幸延(こうえん)の代表作「法善寺横町(当時は横町と呼んでいた)」。
また、芝居や映画・歌謡曲などに次々と紹介され「法善寺」「法善寺横丁」の名前は広く日本中に知られることになりました。
南海電鉄の協力のもと、阪堺(はんかい)電車の路面の敷石に使っていた石を譲り受けて石畳にしました。
こうして、現在の風情ある法善寺横丁の雰囲気を生み出す石畳は完成しました。
つい先日、コケが剥がされた水かけ不動。
屋台が軒を並べ、雑然としていた場所もきれいに整理されていました。
日本橋の橋の下、観光船はここでUターン。
いよいよ街に明かりが灯りました。
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