今から1400年前の昔、聖徳太子が平野の野中の地に小宇を建立して、薬師如来の像を安置されたと寺伝にあります。
これが全興寺の草創です。
その薬師堂を中心に、次第に街が形づくられたことから、「平野」発祥の地とも言われています。
寺の名前の由来は不明であるが、この一帯が杭全荘と呼ばれた事から、「杭全を興す寺」から全興寺になったという説がある。
薬師堂の建立後、周りに人が住み始め、町を形成していった。
これが後の平野郷となる(「平野」という名前は平安初期、この地の領主だった坂上田村麻呂の子の坂上広野(坂上広野麿)の「ひろの」が転化して「ひらの」になったと言われている)。
中世には藤原氏の荘園となり、応仁の乱以降は戦乱に巻き込まれないようにと豪商らが環濠を築き上げ、堺と並ぶ環濠都市として栄えた。
大坂冬の陣では徳川秀忠の軍勢が河内路より平野に入り、全興寺の隣にある野堂町会所を本陣にしたと伝えられている。
大坂夏の陣により町は戦火に飲まれたが、すぐに再建。
大阪大空襲の被害も逃れ、今日もこの一帯は江戸時代からの古い町並みが残っている。
全興寺の本堂は天正4年(1576年)に建造され、大坂夏の陣で一部を焼失。
1661年に再建されたもので、大阪府内でも有数の古い木造建築となっている。
そして一願不動尊(いちがんふどうそん)の雲海では、中央に立っておられるお不動さまの池に鯉が泳ぎ、時折白い水蒸気の雲海がたなびきます。
地獄堂
西門に入って右手に地獄堂がある。
入り口の壁面には「地獄度・極楽度チェック」というコーナーが設けられており、10問の2択の質問に答え、その結果によって地獄行きか極楽行きかの判定がなされる。
いきなり怖い言葉が・・・・・
堂の中は薄暗く、閻魔大王や2メートル以上ある鬼の像が置かれており、閻魔大王の前にあるドラを叩くと、大王がしゃべり出し、地獄の様子がビデオで映し出される仕組みとなっている。
その恐ろしさに途中で泣いて逃げ出す子も多いが、最後は閻魔大王が「こんな所に行かぬよう、悪いことをせず、自分の命を大切に」と諭すという。
地獄堂の設立は1989年。当時は中高生のいじめや自殺が大きな社会問題となっており、住職の川口良仁は何とか出来ないかと考えていた。
そんな中、近所の高齢の女性から「昔、親に「悪い事をしたら地獄へ落ちる」と怖い顔で何度も言われ、そのせいで年を取っても悪い事をする気になれなくなった」という話を聞き、それをヒントに江戸時代からあった古い堂を改装し、名前を「地獄堂」と改めた。
当初は人が入ると自動ドアで扉が締め切られる仕様だったが、あまりの恐怖に叫び出したり、非常ベルを押したりする人が続出した為、ドアを開けっぱなしにしている。
閻魔大王が「命を大切に」と言っているのは、子供の自殺が頻発していた頃であった為だという。
地獄堂を出た所には中に首を突っ込むと地獄の窯の音が聞こえるという穴の開いた石がある。
小林新聞舗店舗
2つずつ配したアーチ形の窓枠が特徴のレトロな建物で、「新聞屋さん博物館」にもなっている。
明治 22 年 (1889 年 ) 創業の、市内でもっとも古い新聞販売店で、建物は昭和 4年(1929 年)に建てられた。
平成 19 年(2007年)国の登録文化財となった。
旧南海電鉄平野線平野駅跡プロムナード
チンチン電車の愛称で親しまれた南海電鉄平野線の軌道跡地に、昭和 58 年(1983 年)に設置された遊歩道。
南海電鉄平野線は、大正 3 年(1914 年)開通以来、多くの人々の交通手段として活躍したが、地下鉄谷町線の開通に伴い、昭和 55 年(1980 年)に廃止された。
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