伝説の長者を訪ねて「さの町場」を散策


まず食野(めしの)家のことを聞くため泉佐野ふるさと町屋館を訪問。

旧新川家住宅(泉佐野ふるさと町屋館) 食野家と取引のあった商屋の旧家。

かつての長者伝説の展示スペース。

丁寧な説明の上、貴重な資料までいただき今回使用させてもらっています。

食野家屋敷跡は現在、第一小学校となっており石碑と井戸跡が残るのみ。

食野家屋敷跡にある案内板。

いろは蔵

食野の倉庫の「蔵」は、「いろは蔵」と言われて、48蔵もあった。

『食野家系譜』などの資料によると、食野家の廻船業は西回り航路が開かれて北前船が天下の台所に入港する17世紀後半には、100隻近い船を所有して全国市場に進出するなど大いに発展した。

大坂から出航するときは木綿、綿実や菜種油などを運び、奥州からの帰りには米やニシンや干鰯(ほしか)などを運ぶなどして、廻船業や大名貸しなどで巨財を築き、大豪商となった。佐野トピックス

なかせ寄場と力石

説明プレートを読むと「17~19世紀、「いろは蔵」と呼ばれる土蔵へ物産を運ぶ人達の船待ち場がこの地にありました。

力石は3つあり、重さは「四十メ」(約150Kg)と書かれています。
彼らの力だめし、鍛錬、娯楽として使われたと考えられます。」とあります。

1761年には鴻池家、三井家、加島屋など名だたる富豪と並んで同額の御用金を受け、1806年には三井家とともに本家が3万石、分家が1万石の買米を命じられた。

大名貸しでは岸和田藩はもちろん尾張徳川家・紀州徳川家など全国の約30藩に400万両ともいわれる多額の資金を用立てた。

莨(たばこ)の火. 【主な登場人物】 食(めし)の旦那 お茶屋の伊八 駕籠屋 その他【事の成り行き】 …
落語でも有名、気前のいいお大尽「食(めし)の旦那」として実名登場する。

佐野くどき – 泉佐野市立図書館:いずみさのなんでも百科

江戸時代の佐野の豪商食野家の庭先で紀州藩主を前に踊られたのが始まりといわれていますが、それはともかく食野家の出世物語やゆかりの俊徳丸などを唄いこんだもののほか新作ものもさかんに作られました。

「加賀国の銭屋五兵衛か和泉のメシか」と唄われている。

その後、幕末には廻船業が停滞したことや、廃藩置県で大名への莫大な貸金がほとんど返金されなかったこと、家人の放蕩などにより一気に没落に至り、同家は同地に現存していない。

屋敷跡は1845年に佐野村が買収し、現在の泉佐野市立第一小学校となっており、松の木と井戸枠、石碑が残されている。

大名貸しをしていた紀州藩では、参勤交代の往復に紀州公が食野家に立ち寄ったといわれ、ざれ歌で「紀州の殿さんなんで佐野こわい、佐野の食野に借りがある」と唄われた。

食野の当主(佐太郎を世襲)が、にわか雨に遇った紀州公の大名行列に、家来千人分の傘を貸した。
紀州公がその傘を千人の片目男に一本ずつ持たせて返しにやると、食野家ではただちに千個の欠け茶碗で、全員に冷や飯を振舞った。
ここから、「佐太郎」は冷や飯の代名詞とされ、川柳に「佐太郎を三度いただく居候」や「佐太郎は茶金の上に腰を掛け」など唄われた。「食野家」泉佐野市立図書館いずみさのなんでも百科

大楠公二十四代の子孫食野家が貸金取立て
大楠公二十四代の子孫にあたるという大阪府泉南郡佐野町の旧家食野治郎左衛門氏(六三)は同家が全盛の旧幕時代諸大名に貸付けた四百万両の借用証文のうち未回収のまま現在に及んでいる三百万両を出来るだけ回収し、それを基金として明治初年に焼失した大楠公の菩提所多聞寺を再興すべくかねて関係各方面の後援を求める一方・・・・・・

食野春日出新田別荘

大阪市西淀川区春日出にあった食野家の別荘。
もともと紀州徳川家の別荘であったものを食野家が譲り受け、春日出の新田に移築したものです。

しかし食野家の財政上の理由から天保年間に売却され、1906(明治39)年に横浜の原富太郎の所有となり、横浜市中区本牧三之谷にある「三渓園」という庭園に移転され「臨春閣」と命名されました。

この臨春閣は1831(昭和6)年に国宝に指定されましたが、第二次世界大戦のとき大破。戦後これを修復し、再び重要文化財として国から指定を受けて保存されています。

現在の大阪市西区南堀江の中央部を東西に通る2本の通り沿いは、明治初期まで「橘通」という町名だったが、このあたりに唐金家の家屋倉庫等が多数あったことから唐金家の屋号「橘屋」にちなんだ町名といわれている。

町名が明治以降、北側の通り沿いが橘通→南堀江上通→南堀江立花通→南堀江、南側の通り沿いが橘通→南堀江下通→南堀江大通→南堀江と変遷したため、道路名としては北側の通りのみが「立花通り」と呼ばれるようになった。

家具屋が立ち並ぶことで知られた「立花通り」は、若者の街となった現在ではタチバナがオレンジに転じて「オレンジストリート」とも呼ばれている。

南堀江と幸町を結ぶ、道頓堀川に架かる新なにわ筋の橋である汐見橋は、唐金家が最初に架橋したといわれており、「唐金橋(とうがねばし)」の別名がある。

くるまみち

街道から浜に通じる道。
浜で積み下ろしする荷をのせた荷車が往来した。

「江戸時代中期から食野(めしの)家に代表される廻船業の隆盛に伴い、商工業が飛躍的に発展して海岸部沿いに漁業・農業・商工業の集落が混然一体となり、自然発生的に迷路のような町場が形成され、独自の町民文化を開花させた。」

戦争で焼けなかったため、迷路のような町場は残った。

江戸・明治・大正・昭和期の面影を探して「さの町場」を歩いた。

西法寺(さいほうじ)

食野家が建てたと言われている浄土真宗の菩提寺(ぼだいじ)で、船主専用の鼓楼(ころう)門、奉納経典も残っているそうです。

妙安寺、浄土真宗寺院。
食野家が資材を投じて興隆している。

食野家の出自は、楠木正成の子孫の大饗(おおあえ)氏。
初代正久のときに武士から廻船業に乗り出したとされている。

『食野家系譜』などの資料によると、食野家の廻船業は西回り航路が開かれて北前船が天下の台所に入港する17世紀後半には、100隻近い船を所有して全国市場に進出するなど大いに発展した。

大坂から出航するときは木綿、綿実や菜種油などを運び、奥州からの帰りには米やニシンや干鰯(ほしか)などを運ぶなどして、廻船業や大名貸しなどで巨財を築き、大豪商となった。

井原西鶴の日本永代蔵に、唐金家とともにモデルとなったといわれている。(同作品中に食野家の所有する千石船「大通丸」をもじった「神通丸」が登場する。)

野出(ので)墓地

北前船で財をなした食野家や唐金家の墓のある場所で、寄港の目印となった「野出の三昧松(さんまいまつ)」が今も残っています。

昼食は松林の「りんくう北公園」で、関空ができるまえまでこれらの緑地は海でした。
―― 案内地図より

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伝説の長者を訪ねて「さの町場」を散策” への1件のコメント

  1. 「さの町場」の魅力がよくわかり、行ってみたくなります。
    泉佐野ふるさと町屋館にある資料をじっくり味わって、そして町をあるいて、資料を読み返して、そしてまた町を歩いて、いろいろ感じてみたいです。

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