御寺泉涌寺


泉涌寺は、京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗泉涌寺派の総本山の寺院。

山号は東山(とうざん)または泉山(せんざん)。

本尊は釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来の三世仏。
皇室の菩提寺(皇室香華院)として御寺(みてら)と呼ばれている。

大門を通ると下り坂の先に仏殿が見えます。

「下り参道」と呼ばれる珍しい伽藍配置で、じつはこれも盆地の底に本堂を建てるのが修行に適しているとされていたから。

総門を入ると、参道の左右にいくつかの塔頭(山内寺院)がある。

長い参道の先にある大門をくぐると、左手に楊貴妃観音堂があり、正面には伽藍の中心をなす仏殿、舎利殿が建ち、これらの背後に霊明殿、御座所など皇室ゆかりの建築があり、その背後に月輪陵がある。



唐の皇帝玄宗(げんそう)の妃・楊貴妃の等身坐像にかたどったという聖観音像が安置されている楊貴妃観音堂。

1255年(建長7年)、中国に渡った湛海が持ち帰り、泉涌寺に安置したとのだという。

長い間、100年に一度の開帳という秘仏であったが、1956年(昭和31年)から一般公開されている。

楊貴妃観音像には、玄宗が亡き妃の面影を偲ぶため、香木で等身坐像にかたどった聖観音像を造ったという伝承がある。

今日では、女性の様々な願いを叶えてくれるパワースポットとして知られている。

泉涌水屋形

1218年(建保6)月輪大師が造営するにあたり、清泉が涌き泉涌寺と改められた。


霊明殿 - 天智天皇と光仁天皇から昭和天皇に至る歴代天皇皇后(南北両朝の天皇も含む)の尊牌(位牌)を安置する。

1882年(明治15年)に焼失し、現在の霊明殿は、1884年(明治17年)に明治天皇の勅命により再建された。
入母屋造り桧皮葺きで、外観は宸殿風の建物である。

1871年(明治4年)に般舟院など京都府内の諸寺院にあった尊牌がここに集められている。

舎利殿と仏殿

勅使門。

御座所 - 仏殿・舎利殿の背後に建つ。

文化15年(1818年)に建立され、現在の建物は、明治天皇が使用していた旧御所の御里御殿を1884年(明治17年)に移築したもので、女官の間、門跡の間、皇族の間、侍従の間、勅使の間、玉座の間などがある。玉座の間は、天皇・皇后が来寺した際に休息所として使用する部屋で、平成期(1989年 - 2019年)に入ってからは、即位報告(1990年)、平安建都1200年記念(1994年)、在位10年の報告(1999年)、譲位の報告(2019年)などの際に平成の天皇が泉涌寺を訪れ、この部屋を使用している。

今上天皇の即位の報告(2019年)の際にも用いられた。

侍の間

勅使門・車寄せ

平安時代に弘法大師空海が草創したと伝わるが、実質的な開山は鎌倉時代の月輪大師俊芿(がちりんだいししゅんじょう)で、天台、東密、禅、浄土の四宗兼学の道場として再興した。

東山の一峰である月輪山の麓に広がる寺域内には、鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、および江戸時代の後水尾天皇から孝明天皇に至る天皇陵があり、霊明殿には歴代の天皇や皇后、皇族の尊牌(位牌)が奉安されている。

後鳥羽上皇や土御門上皇、順徳上皇、後高倉院の他、北条政子や北条泰時も俊芿の下で受戒するなどその勢いは強まり、貞応3年(1224年)には後堀河天皇により皇室の祈願寺と定められ、仁治3年(1242年)正月には四条天皇の葬儀を行うまでになっている。

こうした関係から後堀河天皇と四条天皇の陵墓は泉涌寺内に築かれた。

この頃から皇室との結び付きがより強まっていき、遂には南北朝時代から安土桃山時代までの歴代天皇の葬儀を一手に行うまでになっている。

境内には『枕草子』の作者である清少納言の父・清原元輔の旧居で、清少納言が晩年を過ごしたとされる月輪山荘にほど近い場所として、1974年(昭和49年)に平安博物館館長・角田文衞の発案で百人一首に採られた「夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」の歌碑が建立されている。

御座所庭園

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