1639年 (寛永16年)、明石藩主大久保忠職とその姉桃源院(東丸様、元安房館山藩主里見忠義正室)は、不遇の死を遂げた忠義の菩提を弔う為、ここにあった寺院の伽藍を整備し寺領を増やして供養を行い、里見忠義の法名「雲晴院殿心窓賢涼大居士」からとって雲晴寺と名が改められた。
本堂裏には戦前まで宮本武蔵作と伝えられる庭があったが、1945年(昭和20年)7月の大空襲によって雲晴寺は山門を残して全焼し、庭も戦後復興の過程で埋められた。
2003年(平成15年)、本堂建設に伴う発掘調査により庭園の一部が見つかり復元。
その後武蔵の孫弟子にあたる柴任三左衛門夫妻の墓石が発見され、武蔵ゆかりの寺院の裏付けが濃くなった。
軒を支える邪鬼
山門を入ってすぐ左手に、台座の上に立つ地蔵菩薩像があります。
花崗岩製で、高さ約1.5mの舟形光背面に浮彫りされ、左手に宝珠、右手に錫杖を持っています。
これは江戸時代前期のもので、地蔵菩薩像として非常に貴重なものであります。
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