古来より交通の要衝で、古代には東山道、近世には中山道や御代参街道(伊勢道)が通り、現在も国道8号と東海道新幹線が町中央部を横断している。
その利点を活かして、中世以降近江商人発祥地の一つとして発展。
特に江戸時代後期から昭和初期にかけて多くの商人が発生し、成功して財を成した商人の屋敷や庭園などが残る。
1980年代後半頃から「近江商人発祥の地・てんびんの里」のキャッチフレーズのもと、それらの保存活動や観光資源化が進められている。
近江商人屋敷・外村繁(とのむらしげる)邸
(外村繁文学館)
外村宇兵衛邸の分家にあたり、呉服木綿問屋として活躍した。
1902年に生まれた三男の外村繁(本名:茂)は小説家としても活躍し、梶井基次郎・中谷孝雄らとともに同人雑誌「青空」を創刊。「草筏」、「筏」、「花筏」、「澪標」など、近江商人を題材とした作品を数多く遺している。
展示されている往時の書斎?の様子。
当時の近江商人の姿。
朝星夜星を頂きてんびん棒を肩に全国へ商いに出かける近江商人像と説明書きにある。
近江商人屋敷・外村宇兵衛(とのむらうへえ)邸
(てんびんの里伝統家屋博物館)
外村繁邸の本家にあたり、呉服木綿類の販売で全国に商圏を拡大した。
明治期には全国長者番付にも登場するなど、近江を代表する豪商であったという。
母屋は1860年の築。広大な日本庭園を擁し、門の脇には表の水路から水を引き入れた「川戸」と呼ばれる洗い場がある。
近江商人屋敷では、代々商家に伝わる御殿雛などの家宝雛を始めとした、江戸から平成までのお雛様が展示されている。
展示されている「大福帳」
近江商人は、実店舗を持たない、現代でいう商社や通信販売の先駆けのような商売だったようで、現代と違うのは、相手先へ出張って行ったこと。
相手先で商売をし、帰りには先方の特産品を買い付け、地元で売るという合理的な商法です。
当時の台所が残されている。
餅つきの用意がされているようです。
じっくり落ち着いて家で暮らしたのは、一年の内で冬の時期だけだったようです。
その他は、商売で各地を旅したり、合間に農業の作業をしていたというわけです。
どこの豪邸にも、大きな池を持つ立派な庭を設けています。
せめて、家にいるときくらいは生活を楽しみたいという気持ちが、住居にも表れているのでしょう。
庭の片隅にてんびん棒を担いだ近江商人像が置かれていた。
「五両が千両になるてんびん棒。」
近江商人の高田善衛門は17歳の時に親から貰った五両の使い道を考え、まず美濃の国で煙草入れを仕入れ紀州への道〃売り歩き、紀州はろうそくの産地であったので、ろうそくの燈心が売れるとひらめき、煙草入れを売ったお金で燈心を仕入れて紀州へ売りに行き飛ぶように売れました。
紀州有田は茶の産地、茶摘みに必要なのは笠、ということで近江の皮笠を売り歩くという具合にてんびん棒を肩に行商を続けやがて千両になったという。
馬や船などの便利な運送手段を使わず近江商人は絶対にてんびん棒を離さなかった。
それはどこで何が必要とされているか、どこで何が余っているかという情報は自分の足で歩いて初めて分かるものである。
これを「持ち下がり商い」といい近江商人はてんびん棒を離さなかったそうだ。
あきんど通り。
近江商人の理念『三方よし』「売り手よし、買い手よし、世間によし」。
中江準五郎(なかえじゅんごろう)邸(あきんど大正館)。
中江家は呉服小間物商を営んでいた商家で、明治期に朝鮮半島に進出。
大正期にはアメリカへ商業視察に向かい、昭和初期には「三中井百貨店」として朝鮮・中国各地に約20店舗の支店を展開。
総売上額では三越をも凌ぎ「百貨店王」と呼ばれた。
しかし1945年に敗戦とともに消滅し、今では「幻の百貨店」となっている。
玄関先で見つけた竹筒の中に設えられた雛、細かい芸当だねえ。
地元五個荘で創作雛人形を作っておられる人形師・東之湖氏による雛人形を間近に見ることができました。
蔵には全国の雛、土人形の類が所狭しと飾ってありました。
お寺が並ぶ通りの水路に泳ぐ鯉、五個荘金堂町の代表的な風景です。
その見事な風景にしばし見惚れる。
てんびんの里五個荘へのアクセス、行き方歩き方
住所:滋賀県東近江市五個荘金堂町
電話:0748-48-2100(東近江市観光協会)
JR能登川駅→近江鉄道バス八日市行きで10分、バス停:生き活き館前下車、徒歩5分