利長とまつを祭る 尾山神社

北陸

神社の名称が尾山神社に改められ利家公が祀られたのは1873年(明治6年)のことです。

江戸時代に最大の外様大名であった前田家は幕府から謀反の疑いを掛けられないように、利家公を金沢城の近くに祀ることはせず、浅野川の向こう側、今のひがし茶屋街の先にある宇多須神社に祀っていました。

神門

3層目には、ギヤマンがはめ込まれ、夕刻のギヤマンが夕日に映える頃や、日没から午後10時までの明かりが点灯する頃は見事。

屋根には避雷針が設置されている[2]。これは、日本最古の避雷針とされ、現在も現役である。
オランダ人医師ホルストマンが建設中の神門を見て、北陸が雷が多く高い建物は雷の被害に遭う可能性があるとして助言したことが始まりとされる。

「利家公金鯰尾兜」

この兜は、御祭神前田利家公が戦国の昔二十三歳にして桶狭間の戦に臨まれたとき以来、幾度の合戦に着用されたもの。

利家公は文武に長け刀槍剣鉾を友として、初め織田信長公に仕え後に豊臣秀吉公と共にその覇業を成し遂げた。

この間利家公は戦に臨まれるときは必ずこの兜を身に付け、戦えば勝ち一戦ごとにその功績は高く評価されたそうです。

利家公を祀る神社に限らず、前田家では家名存続のために絶えず幕府に忠誠の意思を示しました。

その代表的なものが、利家亡き後、おまつの方(芳春院)が自ら人質となり江戸に渡ったことです。

おまつの方は江戸へと向かう際に、息子たちに「母は死んだと思いなさい」と言い残して旅立ちました。
後世の歴史家の間では、初代藩主の前田利家よりも、おまつの方を高く評価する声が目立ちます。

この像の利家も「槍の又左」にふさわしく長い槍を持ち、背中に母衣(ほろ)をつけています。

母衣「ほろ」について

流れ矢を防ぐために、鎧(よろい)の背にかけた布のことを言います。

その後時代の推移により風にふくらんだ形を示すために、竹串、鯨の骨類、ひげ等を骨組みに入れるようになり、これを母衣と呼びました。

戦国時代(西暦一五六〇年頃)に騎馬武者は、これを背に戦場を駆け巡り連絡の役をつとめました。このような騎馬武者を母衣衆と呼びました。

織田軍団の母衣衆は、佐々成政を筆頭とした十人の黒母衣衆と、前田利家を筆頭に九人の赤母衣衆とで合計十九人でした。

そして、戦闘となれば、諸隊のガイド的役割もあり、敵にとって目に付きやすく、大変危険でもありました。

神苑

尾山神社が建設される前に、この地にあった金沢城金谷御殿の庭に手を加えて今に至る。

別名は楽器の庭。琴をモチーフにした琴橋や琵琶をイメージした琵琶島など、おもに日本の雅楽で使われる楽器や楽器を演奏するための衣装などをモチーフにした橋や島から成り立つ。 

東神門

もともとは、金沢城二の丸御殿で利用されていた。
二の丸御殿はたびたび火事にあっているが、その際この門は一度も燃えなかった。

その理由としては、立派な龍の彫刻が施されており、この龍が水を吹いて火災を免れたという伝説がある。(作者名は不明)

その後、金沢城は廃城となり金沢城跡が陸軍の拠点となると、訓練などに支障が出るとして卯辰山の寺院に移動された。(なお、この後にも陸軍が二の丸御殿で火事を起こしている) 卯辰山の寺院がなくなると、尾山神社に移され、現在は裏門として利用されている。

社殿の隣脇になんと、カエルを発見、しかも金のカエルです。

神苑にひかれた導水管。
3代藩主利常の頃犀川上流から金沢城に導水した辰已用水が完成しその一部を分岐し金谷御殿(今の尾山神社)にも通水した。昭和の道路工事で当時の水道管が発見された。

前回の訪問記

前田家十七代の藩主と正室をお祀りする尾山神社
社伝によると、 前田利家公の沒後、その霊を神として奉祀しようとしたが、当時はばか … 続きを読む →

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