毎年3月2日、奈良東大寺二月堂に香水を送る「お水送り」神事を行っています。
若狭では、お水送りが終わると春が訪れるといわれています。
山門からは長い参道が続きます。
山号霊応山。天台宗。
若狭一の宮の神願寺として成立、縁起によれば元正天皇の勅命により和銅7年(714)に泰澄大師の弟子沙門滑元の創建したといわれています。
鎌倉初期、若狭彦神社別当寺神宮寺と改名、七堂伽藍二十五坊を誇りましたが、豊臣時代に寺領を没収され、さらに明治初期の廃仏毀釈によって衰微しました
本堂は、室町時代末期、天文22年(1553)越前守護朝倉義景が再建。
大きさは間口14.34m、奥行き16.60m。
建築様式は、和様を主体にしたなかに、木鼻に天竺様繰形、唐用束梁などの大陸の技法が用いられており、妻飾も軒隅の反転とともに華麗な姿を表しています。
日本に仏教が伝来した飛鳥時代には、神道と仏教は未統合であったが、平安時代になり、仏教が一般にも浸透し始めると、日本古来の宗教である神道との軋轢が生じ、そこから日本の神々を護法善神とする神仏習合思想が生まれ、寺院の中で仏(本地)の仮の姿である神(権現あるいは垂迹)を祀る神社が営まれるようになった。
鎌倉時代、室町時代、江戸時代では、武家の守護神である八幡神自体が「八幡大菩薩」と称されるように神仏習合によるものであったため、幕府や地方領主に保護され、祈祷寺として栄えた。
しかし、そのために檀家を持たなかったため、明治時代の廃仏毀釈でほとんどの寺院が神社に転向、あるいは消滅するなどし、急速に数を減らした。
また、福岡県の梅岳寺のように、領主によって明治以前に改名された寺院もある。
現在は、残存した寺院の住職の努力で再興されている。
神宮寺(じんぐうじ)とは、日本で神仏習合思想に基づき、神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂。
別当寺、神護寺、神願寺、神供寺、神宮院、宮寺ともいう。
別当寺は、神社の管理権を掌握する場合の呼称と考えられる。
宮寺は、神宮寺を意味するほかに、石清水八幡宮寺や鶴岡八幡宮寺のように、神祇の祭祀を目的とし、境内には神社のほか仏教施設や山内寺院が立ち並び、運営は仏教僧・寺院主体が行った、神仏習合の社寺複合施設または組織をいうこともある
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