雨の一休寺

京都府


この時期一休寺の境内は無緑に包まれ清々しい、雨に濡れたモミジがきれいです。

方丈庭園は松花堂昭乗、佐川田壽六、石川丈山の合作によるもので、「三作の庭」といわれる。

元弘年間(1331 – 1334年)に兵火にあって衰退していたのを、康正2年(1456年)に一休宗純が草庵を結んで中興し、宗祖の遺風を慕い師恩に酬いる意味で酬恩庵と号した。

「朝咲き散る夕 せつなく美し」

沙羅双樹は、朝に咲いて夕方に落花する姿が、世の無常を感じさせる。

「このはし わたるべからず」…“とんちの一休さん”が晩年を過ごした酬恩庵(一休寺)には、有名なとんち話を再現した橋もある。

再建されてしばらくたった文明2(1470)年の春ごろから、盲目の琵琶弾きである森女(しんじょ)という女性が住みはじめた。
一休が大坂・住吉神社で見そめ、連れてきたのである。

森女は30歳代なかば、一休77歳。
「老いらくの恋」というには、あまりにも年が離れすぎている。薪村に住む一休の信奉者も、ちょっとあきれたのではないだろうか。

だが一休は気にしなかった。
森女の手をひき、緑にあふれる甘南備山のふもと周辺をのんびりと散策した。

そして、夜。一休の詩歌集『狂雲集』のなかに、「美人陰有水仙花香」という漢詩がある。

訳すと、「美人の陰は水仙のような甘い香りがする」とでもなる。
「陰」は、もちろん女性器のことである。そのなかの一節--。

楚台(そだい)はまさに望むべく 更に攀(よ)ずべし 半夜の玉床 愁夢(しゅうむ)の顔 花は綻(ほころ)ぶ 一茎(いっけい) 梅樹の下 凌波(りょうは)の仙子 腰間をめぐる

一休は文明13年11月21日(1481年12月12日)、88歳で亡くなるまでをここで過ごし臨終の際には「死にとうない」と述べたと伝わる。

水上勉は、一休が盲目の森女の膝を枕に、静かに死出の旅に招かれたていったと考えたようだった。

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