大阪歴史博物館10F、古代フロア、高御座から窓の外を眺めると、難波宮跡公園の全貌を眺めることができます。
写真中央の白い部分が復元された大極殿基壇。
「大阪歴史博物館」は古代難波宮の跡地に建てられています。
窓の外に見える大極殿基壇は、実際に大極殿があった場所を表しています。
フロアは当時の難波宮の高御座の様子がほぼ原寸大で再現されている。
今からおよそ1350年ほど前の飛鳥時代、この博物館が建つ敷地には難波長柄豊碕宮という宮殿が置かれていました。
発掘調査ではたくさんの倉庫跡やそれらを区画する塀跡、宮廷に水を供給した水利施設などが見つかっています。
そのほとんどは再び埋め戻して保存するとともに、一部は掘り出したままの状態で見れる。
また、大阪歴史博物館の地下には前期難波宮の倉庫群の遺構が保存され、一般公開されています。
以前地下遺構を訪問した時の記録。
大阪の難波宮遺構を歩く
大阪歴史博物館の地下1階に難波宮遺構が保存され、ガイドツアーによって無料見学が可 … 続きを読む →
高御座が間系でなく絵なのは残念だが、二人の褰帳命婦(けんちょうみょうぶ)が控える。
天皇の即位・朝賀などの大礼の時、高御座の南面の帳をあげる儀に奉仕する内親王・王女。
後期難波宮の模型。
奈良時代の神亀3年(726年)に聖武天皇が藤原宇合を知造難波宮事に任命して難波京の造営に着手させ、平城京の副都とした。
中国の技法である礎石建、瓦葺屋根の宮殿が造られた。
その後、聖武天皇は平城京から恭仁京へ遷都を行っているが、天平16年(744年)に入ると難波京への再遷都を考えるようになる。
この年の閏1月11日、聖武天皇は行幸を名目に難波宮に入り、2月26日に難波京への遷都の詔が正式に発表された。
もっとも、その2日前に聖武天皇は再々遷都を視野に入れて紫香楽宮に行幸しており、難波宮には元正上皇と左大臣橘諸兄が残された。
このため、聖武天皇と元正上皇との間の政治的対立を想定する説や難波遷都は紫香楽宮の都城設備が完成するまでの一時的な措置であったとする説もある。
最終的に翌天平17年1月1日、難波京から紫香楽宮へ遷都が正式に発表された。
難波遷都も紫香楽遷都も聖武天皇の意向であったと考えられ、短期間での方針変更が混乱を招いたと言えよう。
784年、桓武天皇により長岡京に遷都された際、大極殿などの建物が長岡京に移築された。
難波宮史跡公園では、 飛鳥時代(7世紀)と奈良時代(8世紀)の前後2時期の難波宮を、 レンガ・土盛りなどにより表示し、保存と整備をはかっている。
難波宮の廃絶後は、永くその場所が分からなくなっていたが、 故山根徳太郎博士が1954年から発掘調査を始め、 61年には後期難波宮の大極殿を確認するにいたった。
1961年(昭和36年)山根らの発掘により、聖武天皇時代の大極殿跡が発見され、その存在が確認された。
これを後期難波宮という。
山根は発見当時、「われ、幻の大極殿を見たり」という名言を残した。
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