この記事は誤って消去してしまった記事の再掲です。
画像は2013年3月26日訪問時のものです。
烏丸通り今出川を南に約100m進んで御苑の「乾御門」を潜ると旧近衛邸の跡地は東にある。
ここの桜は早咲きの桜として有名です
近衛池に降り注ぐように咲き誇った糸桜。
築地塀や建物はないが、大池を囲む庭園は保存されており、九条家の九条池に対し近衛池とよばれている。
糸桜は葉に先だって直径二cmほどの花を枝一面につける。
枝垂れ桜の古来の呼び方。
半日の雨より長し糸桜\松尾芭蕉
「昔より 名にはきけども今日みれば むべめかれせぬ糸さくらかな」
幕末の安政2年(1855年)、孝明天皇が近衛邸を訪れた際に目にした八重や一重の糸桜(枝垂れ桜)をたたえて詠んだ歌だ。
意訳:以前から美しい桜だと聞いていたが、今日こうして見てみると、なるほど目の離せない、見飽きない糸桜であることよ。
室町時代、近衛家の本邸は現在、同志社大学の新町校舎のある一角にあったのですが、当時、邸内には糸桜が植えられ、その名木ぶりから「桜の御所」とも呼ばれるほどで、足利義満も自邸の花の御所にその苗を所望したといいます。
大勢のカメラマンが群がり中々思うようなショットが得られません。
この邸宅は後に、秀吉による京都の町の区画整備事業にともなって、今の御所の西北の地に移転することになります。
おそらくその際にも、糸桜は植えられたことでしょう。
片隅で若い女性がキャンバスを広げています。
邪魔だなと思ったが思い直し、「いい場所だね」と声をかけると、「えっカメラマンの目線でもいい場所ですか、でも難しいね」
絵を覗き込んでみると、おお、中々大胆な構図で・・・・
御所の皇后門へ抜けられる通路の桜のトンネル、立ち止まる人が多く、中々思った通りの構図で撮らせてもらえません。
現在見られる桜はどの木も大木で勢いがありますが、いずれも明治以降に植えられたものだそうです。
ここも競争率の高い場所でした。
人の絶えないベストショットがえられる場所です。
「縣井」は、かつて染井、醒ヶ井とともに京の三名水の一つといわれ、また、染井、祐井とともに、御所三名水の一つにも数えられてきました。
「縣井」のあるあたり一帯も、江戸時代までは一条家の屋敷地でした。
京都御苑の中でもこのあたりは宮内庁京都御苑事務所の裏側にあたり、少しわかりにくいところかもしれませんが、樹木の多い気持ちのいい散策路となっています。
昔この井戸のそばには、縣宮(あがたのみや)という社があり、地方官吏として出世を願う者は、井戸の水で身を清めて祈願し、宮中に参内したといいます。
「大和物語」では病気を治す水とも紹介され、井戸とまわりの山吹の風情は、後鳥羽院などの歌にも詠まれました。
蛙なく縣の井戸に春暮れて 咲くやしぬらん山吹の花 後鳥羽院
宮内庁京都事務所
国有財産である京都御所、京都大宮御所、仙洞御所、桂離宮、修学院離宮と桃山陵墓監区、月輪陵墓監区、畝傍陵墓監区、古市陵墓監区の各所轄の近畿地方の天皇陵や皇族の墓、正倉院の管理を担当している。
参観の申し込みもここで行う。
蛤御門の近くに咲くモクレン。
こちらハクモクレン。
一方、御所の西側を南へ下がっていくと、桃園と梅園があります。桃の花とイトザクラはほとんど同じ時期に開花しますので、是非こちらも一緒に見て頂きたいところ。
桃の花弁はふっくらと豊かなふくらみが魅力。
もう少し南へ下がると梅園です。
枇杷殿は平安時代、権中納言藤原長良が建設した邸宅。
その後、長良の子関白藤原基経の邸宅となりました。
北は鷹司小路、南は近衛小路、東は東洞院大路、西は烏丸小路に面した一町を有し、邸内に果物が多く植えられていたために枇杷殿の名がついたといいます。
平安時代中期には三条天皇の里内裏となり、その後、三条天皇の中宮藤原妍子(藤原道長の次女)とその皇女禎子内親王の邸宅となり、妍子はこの邸により枇杷殿皇太后と呼ばれました。
のちに後朱雀天皇中宮となり女院となった禎子内親王はこの邸宅が大内裏の陽明門に行きあたることから陽明門院と号したといいます。
その後、枇杷殿は太皇太后藤原寛子(後冷泉天皇后・関白藤原頼通の娘)の御所となり、関白藤原忠実の管理に入りました。
しかし、藤原忠実が保元の乱で敗れた際、後白河天皇によって忠実所有の枇杷殿は取り上げられ、院領にくみいれられて消滅したそうです。
春とはいえまだ寒いが、出水の小川で子供たちが川に入って遊んでいます。
傍らの馬酔木も見頃を迎えている。
出水の小川前の枝垂れ桜も満開でした。
また、近衛邸跡には早咲きの桜だけではなく、遅咲きの紅しだれ桜も植えられていて、実はこの先3週間ほどは楽しめる桜の名所となっています。
京都御苑 近衛邸跡へのアクセス、行き方歩き方
京都市上京区京都御苑内
市営地下鉄烏丸線・今出川駅下車、徒歩5分