関寺は、創建年代は不明であるが、逢坂の関の近くにあった大寺院である。
平安時代日本三大仏の一つ関寺大仏は特に有名である。
鎌倉時代時宗宗祖一遍上人が遊行し「おどり念仏」を奉納。
慶長の兵火に羅災の後、寺の名称を長安寺と改めた。
昔、長安寺のある一帯は「関寺」と呼ばれ、大寺院があった。
平安時代に復興工事が行なわれた際、資材の運搬に一頭の牛が見事な働きをした。
その牛は仏の化身と噂され、時の権力者である藤原道長まで拝みに来たという。
しかし、工事終了と共に牛は死に、霊牛の供養塔として作られたのが牛塔だという。
「これと匹敵するのは、逢坂山を越えた所にある、関寺の牛塔であろう。
石塔寺との間には、約三百年のへだたりがある。
ここはもはや大陸の残り香はなく、完全に日本のものに化している。
人工から再び自然に近づいたといえようか。
はっきりした形は失ったかわり、漠然とした大きさと、暖かみにあふれ、笠をのせたような印象をうける。
牛塔とか牛塚と呼ばれるのは、横川の恵心僧都が、関寺の再興をはり、工事のために牛を使役していた。
その牛が、迦葉菩薩の化身であるという噂が立ち、前関白道長や、頼通が、拝みに来るという騒ぎだったが、噂にたがわずその牛は、工事の終了とともに死んでしまった。
その供養のために建てたのが、この宝塔であるというが、俗に和泉式部とか、小野小町の塔とも呼ばれている。
「年々に牛に心をかけながらこそ越えね逢坂の関」と、式部が詠んだからで、小町の方は、謡曲の「関町小町」から出た伝説に違いない。
が、牛や美女では不似合いで、よほど名のある高貴な人か、もしかすると、恵心その人の供養塔だったかも知れない。
いずれにしても、こんな美しい石塔が、二つながら近江の地にあることは、良材に富んでいたのはもちろんだが、その裏にある石の信仰と伝統のたまものといえよう。」
白洲 正子のエッセイ 『かくれ里』より
境内には、元亀二年の織田信長の比叡山焼き討ちなどにより、比叡山山麓の坂本付近に埋もれていたものを、昭和三十五年に百体、境内に移し祀った「埋もれ百体地蔵」がある。
埋もれ百体地蔵の奥には、小野小町の供養塔がある。
謡曲の「関寺小町」が晩年の小野小町を歌っている縁で、置かれたのだろう。
小野小町といえば、平安時代の歌人で絶世の美女とされる。
彼女は、晩年を山科(京都市)の随心院のあたりで暮らしたといわれる。
大津から逢坂山を越えれば、山科である。
あらすじを少し紹介すると、僧侶が弟子たちを連れて、近江に住む和歌の上手いおばあさんに歌を教わりに行きます。
おばあさんと話をしているうちに、僧侶はこの人が、実は小野小町なのでは?と気づくという話です。
関寺小町は能の中でも最も難しい曲目だそうです。
小堂(本堂)の前にて。牛塔にちなんで、牛の置物が置かれている。
本堂の右側に建つ庫裏の横から石段が始まり 参道となる。
園城寺の境内に続く山道を登る。
途中には西国三十三カ所めぐりの石仏が処々に立っている。
崩れかけの石積みもある。
山道は落ち葉が積もり、人の訪れを感じさせない。
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