長浜 大通寺


大手門通り 西門

長浜は商業の取引に課税しない「楽市・楽座」制度を採用していたため、多くの商人が行き来した街でした。
江戸時代が終わり明治になってもその賑わいは続き、経済的にも発展したため、多くの銀行が立ち並んでいたそうです。

その一つが「第百三十国立銀行長浜支店」。
明治33(1900)年に建てられた木造洋館は、黒漆喰の外観から「黒壁銀行」と呼ばれ親しまれていました。

明治時代には「明治銀行」と名前を変え、昭和の頃にはカトリック教会としても使われていました

昭和の中頃になると、大型店が郊外に続々とオープンし、長浜の街に活気がなくなっていきます。

同じ頃、皆に愛されてきたこの黒壁銀行が取り壊しの危機にあい、地元有志による保存運動を経て、「株式会社黒壁」を設立。
新たな街づくりに取り組むことになりました。

こうして、黒壁銀行は平成元(1989)年に「黒壁ガラス館」として新たにオープン。

竪型万華鏡

奥へと進んでいくと、突き当たりに塔のような高い建物が現れます。
これこそ、今回ご紹介する竪型万華鏡。

高さは約8メートル。
確かにここまで大きな万華鏡を見たことのある方は少ないのではないでしょうか。

青空に向かって屹立する実物を見ると、圧倒されること、間違いありません。

頂上部に色とりどりの羽根がついているのがおわかりいただけるでしょう。

こちらの羽根は「オブジェクト」と呼ばれているもので、光がオブジェクトに反射し、さまざまな色や模様を現出させるのです。

長浜は豊臣秀吉が城を構えたところ。
すぐ傍にこんなパロディ的なものがあります。

曳山博物館 通りにある広場
きいなパーク と名付けられていますが「きいな」という滋賀、長浜の方言を使っていると思われます。

「きいな」とは「おいでよ」の意味です。
「うちに遊びにきいな!!」といった感じで使います。

お花ぎつねのオブジェ

明治のはじめ頃、大通寺に単身赴任してきたお坊さんがいた。

洗濯をしたある日、下帯だけ後で洗おうと思い縁の下に置いたままにしていたのだが、あくる朝、この下帯が本堂前に持ち出されていて、参詣に来た人々の目に入り大笑いされてしまった。

周囲の人に、赴任してきた時にお土産を「お花はん」に持ってこなかったからだと聞かされたお坊さんは、油揚げを買って大広間の天井へお供えした。

すると、それからピタリといたずらが止んだそうである。
大通寺では、今でも大広間に梯子がかけられていて、油揚げをお供えする人が後を絶えないという。

急ぎ去れ  彼も親あり  花狐

「近江むかし話」によると、昔、大通寺(長浜御坊さん)に「お花はん」というきつねが住んでいたとか。

大通寺は、江戸時代には 琵琵湖岸の長浜城跡の中にあり 賑やかな街の中に移そうという賛成派と、反対派に意見がわかれ、本山(東本願寺)で決めてもらうことになったそうです。

お花はんは どうやら賑やかな街中に行きたかったらしく、お茶屋の娘に化けて 反対派の人たちの足止めをしたとか・・・で、今は この街中にあります。

道の両側に きつね っぽいアレコレがあることに気づきました。

橋の欄干も狐
尻尾もあるよ?

滋賀県の古刹、大通寺は江戸時代初期に建立され、真宗大谷派(東本願寺)の別院として知られています。

幅広い層から信仰をあつめ、地元の人々から「御坊さん」と親しみを込めて呼ばれています。

2023年1月27日 長浜別院大通寺で撮影された映画「レジェンド&バタフライ」が公開されました!!!

大通寺では信長、家康、光秀の3人が一堂に会す重要なシーンの撮影が行われました。

山号は「無礙智山」(むげちざん)。

別名は「長浜御坊」(ながはまごぼう)で、地元では「御坊さん」(ごぼうさん、またはごぼさん)と呼ばれる。

「長浜別院」、「大通寺」と略称される。

本坊

山門扉

山門 - 1840年(天保11年)ごろに完成したもので、完成まで33年経過したといわれる。
入母屋造で三間三戸で作られている。

表参道から山門までの雰囲気が、「男はつらいよ」に出てくる柴又の帝釈天に似ていると感じる。

そうなんです!
この大通寺の山門の下でも「男はつらいよ」のロケ行われました。

蓮池の枯れ葉がきれいです。

梅も咲いています。

歩いたのはここまでの1キロ弱とほんの短い道でしたが、「十里街道」はこの先も湖北へと続いているようです。

「長浜御坊」に通じるもうひとつの道・・・「十里街道」、初めて知った思わぬ”まちかど散策”でした。

通りから見える伊吹山、ちらりと見えるところがいいね。

公園の向こうに頭が見えてています。

珈琲屋さんの看板、レトロ感がいいね。

滋賀県長浜市に2021年12月にオープンした商業文化施設「湖(うみ)のスコーレ」がフーディーの間で話題になっている。

“スコーレ”とはギリシャ語で「学校」を意味する言葉で、「発酵文化」などこの土地に根付く暮らしの知恵を学ぶ場所として造られた。

滋賀県では琵琶湖を、親しみと敬意を込めて“うみ”と呼んでいるのだとか。

今日のお昼はスコーレでいただいた。

「近江牛の伊吹山発酵カレー」サラダにコーヒー付きで中々美味でした。

妙法寺、羽柴 秀勝の墓所。

羽柴 秀勝(はしば ひでかつ、生年不詳 - 天正4年10月14日(1576年11月4日))は、安土桃山時代の人物。
羽柴秀吉が近江長浜城主時代にもうけた長男で、幼名は石松丸(いしまつまる)または石松。

他の秀勝(於次丸秀勝・小吉秀勝)と区別するため、史家は便宜上これを石松丸秀勝(または石松秀勝)と呼ぶことがある。

秀吉が長浜城主時代にもうけた初めての男児であったという伝承がある。
生母には諸説あるが、いずれの場合も側室で、秀勝は庶長子である。

「秀勝」の初名は、羽柴氏の由来と同じく、織田家の宿老の丹羽長秀の秀と柴田勝家の勝の両名の偏諱を受けたものであると考えられているが、同様に史料的裏付けはない。

秀吉は後になって、養子とした織田信長の四男や三好吉房の次男にも同じ名を付けた。

天正4年(1576年)10月14日、秀勝は死去した。

長浜に今も伝わる曳山祭は、天正2年(1574年)に秀吉に男児が誕生したのを祝って始められたとの伝承がある。

長浜市石田町生まれの三成が、観音寺で修行をしていたある日のこと。

当時長浜城主だった秀吉が鷹狩りの途中に立寄ったところ、最初は大きい茶碗にぬるいお茶をなみなみと、次は前より少し熱くして半分ほどのお茶を、最後には小さな茶碗に熱くした少しのお茶を差しだしました。

この三成の心配りに感心した秀吉は、やがて三成を召抱えることとなりました。

これが有名な「三献の茶」の逸話です。
この像は、二人の出逢いをモチーフに昭和56年9月に駅前に建立されたものです。

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