「お弓神事」とも呼ばれている同大社の伝統行事。
弓のつるや、矢の風きりの音などで、天の魔や地の邪気をはらうとされている。
「神館」の庭で烏帽子(えぼし)に直衣(ひたたれ)姿の射手が1矢を放ち、一年の安全を祈願した。
動画 住吉大社 御結鎮神事 2014 住吉大社 御結鎮神事 2014 女性の所作
今年も、「神館」の庭にて奉射が行われた。
大阪府弓道連盟の方々が奉仕され、普段は入れない神館の庭で行われます。
神功皇后の故事に因み、邪気退散、天下泰平を祈願して行う奉納の神事で、一切の不詳を祓い、福を招くといわれ、「お弓神事」「弓始神事」ともいう。
祭典を終えたのち、弓の名人が大的を射る古式による弓十番が行われる。
まず神官が入場。
続いて大阪府弓道連盟の奉仕者の方々が入場されます。
皆さんユガケを付けています。
ユガケとは弓を引く際、右手を痛めないようにつける鹿革でできた手袋。
このユガケは、オーダーメイドで、個人で持つもの。
そのため、ユガケは安全上、儀礼上、慣れたものでないと使えません。
弓は貸してもユガケは他人に貸すな、というのがあるそうで、 ユガケには換えがないカケの換えはない⇒かけがえがない。
男性は左袖を脱いで片肌を出して行射する(肌脱ぎ)。
これは左袖を弦で払わないためにする。
的の近くには審判のような役目の人がおり、的に当たったら白旗をサッとあげます。
一の組が一巡すると、射た矢が回収され、持ち主に返されます。
もちろんこれも作法に則って行われます。
女性は片肌脱ぎになるわけにいかないので襷をかける。
いずれも動作の作法が定められている。
御結鎮神事の起源は明らかではありませんが、神功皇后の故事に因み、邪悪退散・天下泰平を祈願します。
江戸時代から続いていた神事が戦争で中断していたのを昭和24年大阪の弓師、福山甚右衛門氏のご尽力で復活したものです。
1月13日午前10時より、第一本宮で祭典・饗膳ののち、境内南広場の特設射場にて大阪府弓道連盟により古式による弓十番が行われます。
この弓矢神事の奉射は、的当てを競うものではありません。
的を射た矢は「天の邪気を祓い」、はずれた矢は「地の邪気を祓う」と云われているそうです。
左手の射手の持っている弓は小笠原流でも高弟の人しか使うことが許されていないものだという。
ちなみに小笠原流とは、初代の小笠原長清から継承されてきた流派です。
鎌倉時代に活躍した人物で、三法の「弓と馬と礼」を一体とした諸芸流派でした。
元は源頼朝が弓と馬の指南役として小笠原長清を指名したことから始まり、その後に後醍醐天皇の時代に礼法を加えて三法としました。
小笠原流といえばこの「弓」「馬」「礼」の三法が原則となっています。
ところで、住吉大社に川端康成の文学碑があることをご存知の方は少ないのではないでしょうか。
「反橋は上るよりもおりる方がこはいものです。私は母に抱かれておりました。」
という、川端康成の作品『反橋』の一節が本人の自署とともに記されている文学碑。
碑が置かれているのは、反橋(そりばし)を渡って右脇。
緊張の中にゆれる生と死を詩的に結晶させた作品で知られる、日本初のノーベル文学賞作家・川端康成(1899-1972)は、大阪天満宮の南向かいの料亭の一角にあった生家で3歳まで過ごした後、両親と相次いで死別。
それからは現在の茨木市宿久庄町の祖父母の家で育てられるが、祖母、姉を続けて亡くし、16歳になるまで祖父と二人暮らしであった。
死ぬ直前の祖父とのやり取りは、『16歳の日記』で克明に描かれている。
以降は、上京して『伊豆の踊り子』や『雪国』などの名作を次々に発表、作家として大成するが、故郷の大阪を舞台にした作品は、昭和23年(1948)の『反橋』や翌24年(1949)の『住吉』くらいで、それほど多くない。
住吉をはじめ、住吉大社、そして境内にある文学碑をめぐり、川端康成の文学に触れてみたいものだ。
住吉大社へのアクセス、行き方歩き方
〒558-0045 大阪府大阪市住吉区住吉 2丁目 9-89
TEL : 06-6672-0753
FAX : 06-6672-0110
南海本線「住吉大社駅」から東へ徒歩3分
南海高野線「住吉東駅」から西へ徒歩5分
阪堺線 「住吉鳥居前駅」から徒歩すぐ
阪堺線 「住吉公園駅」から徒歩2分