応仁の乱発端の地 上御霊神社

上御霊神社(御霊神社)は早良親王や井上内親王、橘逸勢、吉備真備など、政争などで非業の死を遂げた人々を祀る神社。
「応仁の乱発端の地」の碑もあります

応仁の乱・・・・文政二年(1467年)将軍の後継者争いでこの附近「上御霊神社の森の合戦」から応仁の乱が始まり、約10年続き戦国時代の幕あけとなった乱である。

早良親王は、光仁天皇の第二皇子。兄桓武天皇の即位に伴って皇太子となるが、大伴家持が策画した藤原種継暗殺事件の主謀者として、淡路に流される途中絶食して絶命。
のち、桓武天皇はその祟りを恐れ、親王の怨霊に対して懺悔と謝罪を度々行って、最後は崇道天皇として追尊した。

「崇道」とは「祟道」に掛けたものではないかという見方もある。
長岡京への遷都からたった10年で平安京へ遷都した理由の一つには早良親王の祟りを避ける目的があったというのが歴史学会における定説となっている。

上御霊神社鳥居前(北側)に「花御所八幡宮跡」の石碑がある。
永和4(1378)年、室町幕府三代将軍足利義満が花の御所を造営した。

花の御所は、北は上立売通(当時「毘沙門堂大路」)、南は今出川通(当時「北小路」)、東は烏丸通(当時「烏丸小路」)、西は室町通(当時「室町小路」)に囲まれた一帯。

室町殿、室町第とも呼ばれ、室町幕府の名の由来となった。
花の御所の鎮守として源氏の氏神である八幡神が勧請され、この石標はその八幡宮跡を示すものである。

上御霊神社には芭蕉も訪れ
半日は 神を友にや 年忘」(はんにちは かみをともにや としわすれ)
の句碑が境内に立てられている。

うっそうとした静かな境内では「暴れん坊将軍」や「遠山の金さん」など時代劇のロケも行われている。
桜もきれいに咲いているが、知っている人が少ないせいか参拝者は少なく、京都の穴場的な心が落ち着く神社だ。

清明心の像
中国の学者 司馬温公が、幼少の頃、数人の友人と遊んでいるときに、一人が満水の水瓶に登っていて中に落ちた
友人達が慌ててうろたえる中、司馬温公は、大石で水瓶を割って友人を救ったという故事による

1979年(皇紀2639)昭和54年国際児童年にあたり、世界の子供たちに改めて「生命は物資よりも尊い」との精神を認識してもらいたいと創られる
ご利益:疫病退散、厄除け、安産

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上御霊神社への行き方・歩き方

上御霊神社公式サイト

住所:京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町495番地
電話:075-441-2260
FAX:075-441-6066
受付時間:午前9時~午後5時まで(季節により変更あり)

・地下鉄烏丸線鞍馬口駅徒歩3分
・市バス37系統出雲路俵町西へ400m