行き暮れてここが思案の善哉かな

大阪府


大黒橋から道頓堀川を眺める。

太左衛門橋
橋の名は橋の東南角で歌舞伎の小屋を開いた興行師大坂太左衛門に由来するという。
寛永3年(1626)に道頓堀の南側に芝居と遊郭が公許され、大坂太左衛門ら6名が京都から進出した。

太左衛門橋がいつ架けられたかは明確ではないが、芝居小屋などへの通路として早くから架けられていたに違いない。

以降道頓堀の芝居町を中心にして周辺の町々の負担で維持されてきた。
織田作之助の作品に『女の橋』『船場の娘』『大阪の女』という三部作があるが、ストーリーの節目に太左衛門橋が、一場を構成する重要な役割を与えられている。

「角座」の名称は、「角の芝居」と呼ばれた江戸時代に遡ります。
「角座」はかつて、浪花座、中座、朝日座、弁天座と共に、「五つ櫓」若しくは「道頓堀五座」と呼ばれ、1960年~70年代には、上方演芸の殿堂として栄えました。

その後、「角座」の名称は、松竹(株)の直営映画館(大阪市中央区)や弊社直営の劇場「B1角座」(大阪市中央区)に引き継がれていましたが、2008年の角座ビル(大阪市中央区)の閉館と共に、消滅致しました。

2013年7月に「道頓堀角座」として再びオープン。

道頓堀角座では松竹芸能の舞台はもちろん敷地内には野外ステージや、いま話題の「俺のフレンチ・イタリアン」や地元を代表する粉もん屋の名店「くれおーる」なども楽しむことができます。

大阪松竹座。
松竹株式会社が経営している。
この劇場は劇場街・道頓堀を表す「道頓堀五座」(浪花座、中座、角座、朝日座、弁天座)には含まれない。

戎橋南詰より東を望む

大阪ミナミの東西基軸となる道頓堀通の両側町で、南は難波新地と千日前、北は道頓堀川を挟んで島之内の宗右衛門町や久左衛門町に接する。

飲食店が集中し、グリコネオン、かに道楽本店、づぼらや、くいだおれ(閉店)、道とん堀関西支社、なんば道頓堀ホテル、中座くいだおれビル、道頓堀極樂商店街(閉館)など、多種多様な看板・建物の店舗であふれている。

<いづもや跡(讃岐屋)>
「鱧の皮」のモデルになった鰻屋が「いずもや」です。
当時は「いづもや」もチェーン店で道頓堀から千日前には何店舗かあったようです。

特に有名だったのが道頓堀の相生橋東詰めと角座前のお店でした。
「…源太郎がまた俯いて、読みかけの長い手紙を読まうとした時、下の河中から突然大きな声が聞えた。

「おーい、……おーい、……讃岐屋ア。……おーい、讃岐屋ア。」
重い身体を、どツこいしよと浮かして、源太郎が腰|硝子の障子を開け、水の上へ架け出した二尺の濡れ縁へ危さうに片足を踏み出した時、河の中からはまた大きな声が聞えた。

「おーい、讃岐屋ア。……鰻で飯を二人前呉れえ。」。…」。
ここでは鰻屋は讃岐屋になっていますが、大正初期の芝居小屋のまえの鰻屋というと、道頓堀では芝居小屋が角座で鰻屋が「いづもや」となってしまいます。

道頓堀というと、ここしかないわけです。
残念ながら角座前の「いづもや」はもうありません。
現在は千日前にある「いづもや」のみです。

地元の人からは「水掛不動さん」の名で親しまれています。
元々、法善寺横丁は浄土宗天龍山法善寺の境内で参拝客相手の露店が発展したものです。

境内は風情ある石畳が敷きつめられており、苔むした水掛不動さんに縁結びの願をかけにくる沢山の参拝者で、一日中賑わっています。

夫婦善哉
織田作之助の「夫婦善哉」が映画化されたことにより全国的に有名になった。

北新地の売れっ妓「蝶子」と柳吉は、黒門市場(日本橋の南側)の中の路地裏に二階借りして世帯(しょたい)を張って間もない。

織田作之助の短編小説「夫婦善哉」のストーリーなので「自由軒」が出てくるまでに少々時間がかかります。
<柳吉はうまい物に掛けると眼がなくて、「うまいもん屋」へ屡々(しばしば)蝶子を連れて行った。>

織田作はここで「うまいもん屋」の店名を次々と連ねる・・・「しる市」「出雲屋」「たこ梅」「正弁丹吾亭」「寿司拾」「だるまや」と。

<何れも銭のかからぬいわば下手(げて)もの料理ばかりであった> 
下手もの料理屋が列挙されて・・・やっと「自由軒」の登場。

<楽天地横の自由軒で玉子入りのライスカレーを食べた。
「自由軒のラ、ラ、ライスカレーは御飯にあんじょうま、ま、ま、まむしてあるよって、うまい」と嘗て(かって)柳吉が言った言葉を想い出しながら、カレーのあとのコーヒーを飲んでいると、いきなり甘い気持ちが胸に湧いた。>

作之助の父鶴吉は結婚前、芭蕉が句を残したほどの料亭「浮瀬」の板前をしていた。
そして、その家のこいさんとの間に子をなした。

作之助に腹違いの兄がいたわけだ。
鶴吉は腕がよく、女にもてる板前だったようだ。

生玉神社に建造された織田作之助像。

法善寺の境内入り口に、「大阪ぐらし」の石碑があった。
「・・・・・恋の思案の法善寺」。

法善寺横丁は浄土宗天龍山法善寺の境内の露店から発展。
明治から昭和の初期にかけては寄席の紅梅亭と金沢亭が全盛で、落語を楽しむ人々で賑った。

太平洋戦争の空襲で寺ともども焼失。
戦後、再び盛り場としてよみがえった。

寺は江戸時代の創建だが、現在は不動さんと金毘羅堂だけが残る。

なお、敷石は30センチ四方のものが南海電鉄のもので、70センチ×40センチのものが大阪市電のもの。
大阪にこられたときは打ち水された夜の法善寺横丁を歩きながら敷石を探してみるのも楽しいのではないでしょうか。

極楽小路、慈悲地蔵尊、ネコは人慣れしています。

正弁丹吾亭
このお店もオダサク作品で関東煮(かんとだき=おでん)の美味しい店として登場します。

その名の通り、戦前まではお店の横に即席の公衆トイレ「小便担桶」が並んでいたらしく、そのまま屋号にしてしまったという由来がある。

1893年に創業という正弁丹吾亭とは、織田作之助の小説「夫婦善哉」(1939年)の中に実名で出てくるが、「正(ただ)しく」「弁(わきま)える」「丹(まごころ)のある」「吾(わたくしども)」の「亭(みせ)」という意味らしい。

ヒット曲「月の法善寺横丁」歌碑
月の法善寺横丁の歌詞が刻されている。
平成10年建立。

織田作之助句碑
「行き暮れてここが思案の善哉(よしや)かな
「良しや」を「善哉(ぜんざい)」にかけています。

小説家織田作之助は、大正二年十月、生国魂神社の近くで生まれた。

彼は郷土大阪をこよなく愛し、終生大阪を離れず、出世作「夫婦善哉」をはじめ、大阪の市井人情を描いた名作を多く残したが、昭和二十二年一月、読売新聞に「土曜婦人」を連載中、胸患のため惜しくも三十四歳の若さで世を去った。

その命日が十日戎の日に当たるのも彼らしいというべきか。
撰文 友人 藤澤恒夫

上は石碑に刻まれた織田自筆を写した文章、下は彼の友人である同郷の藤澤恒夫による碑文です。

平田春一歌碑

かくばかり 鯛を食はゝ鯛の奴
   うらみつらむか あるいは否か

元住友本店筆頭重役の川田順とも交流があった。

西田当百句碑
じょうかん屋 へいゝゝと さからはず

西田当百(川柳作家)

横丁西門からの石畳
法善寺に入るには東西の『法善寺参道』、東西の『法善寺横町』そして『浮世小路』の合計5カ所の入り口があります。

横丁の入り口に架かる看板の文字は西が藤山寛美さん、東は3代目桂春団治さんのもの。
おもしろいことに藤山寛美の「善」の字には横棒が一本足りません。「芸人は棒が一本足らんくらいがちょうどいい」と言ったとか。

浪速割烹 喜川

花月席跡碑
戦前この場所に南地花月があった。

当時、大阪の演芸興行を代表する寄席小屋は「紅梅亭」と「金沢亭」でしたが、出演者の老齢化で「金沢亭」の経営は斜陽になりかけていた頃、吉本興業の創業者である吉本泰三・せい夫妻が「金沢亭」を買収し「南地花月」を開きました。

戦前の上方落語界を代表 する初代・桂春団治や、横山エンタツ・花菱アチャコなど、数多くの芸人が南地花月の舞台にあがっています。

法善寺横丁東門

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