わずか半年ながら、神戸の福原に遷都した平清盛。
清盛が描いた夢の跡をたどってみた。
今回は福原遷都の際、清盛が後白河法皇を幽閉したと伝えられる「萱の御所」跡
幕末、初代英国公使オールコックがこの薬仙寺に宿泊したとか。
天平十八年(746)に行基(ぎょうき)菩薩が開基(かいき)したと伝えられます。
行基が聖武天皇から賜った観音像と、地中より発見されたと伝わる薬師如来が祀られている。
文久元(1861)年には英国の初代公使、オールコック一行が兵庫開港予定地を視察するにあたり、宿泊地とした場所でもある。
かっては広大な寺域と多くの塔頭を有していたが、明治7年(1874)新川運河掘削で狭められ、貯木場の建設で更に狭められ、神戸空襲を受けその後復興し、現在の姿となっている。
萱の御所跡碑
平清盛の別荘「萱の御所」跡(神戸市夢野町にあった「平教盛邸」だという説もある)
元は北東約100m離れた所にあったが、昭和28年(1953)運河拡張工事の際水没した為現在地に移し、
旧碑破損により現時の碑を再建(昭和47年=1972)。
福原遷都の際、後白河法皇をここに幽閉したので「牢の御所」ともよばれた。
伊豆国に流された際、源頼朝と出会った文覚上人は、後に萱の御所に忍び入り、後白河法皇より院宣を授かり、頼朝に平家追討を勧めたといわれている。
後醍醐天皇医薬水
当山本尊薬師如来示現の霊薬泉で、元弘の変(1333)の時、後醍醐天皇が隠岐から還幸の途中、兵庫の福厳寺に泊まられたが、病床に伏せられた。
この時、ここの霊水を服薬に差し上げたら病が回復した。
これにより、天皇より「医王山」と山号を賜り、「薬仙寺」と名付けた。
花山法皇歌碑
第65代天皇花山天皇(968~1008)は、若くして妻を失い、藤原氏の策謀により退位し19歳で出家、三田花山院に隠棲した。
こよなく大輪田の海を愛し、しばしばこの寺に滞在したと伝えられる。
その縁によりいつの頃かこの歌碑が建立された。
古碑の為判読しにくい。
有馬富士 ふもとの霧は 海に似て 波かと聞かば 小野の松風
詠歌踊り念仏連名
時宗開祖一遍上人は踊り念仏とお札くばり布教を中心として遊行し、正応2年(1289)この兵庫の地で没した。
この関係で兵庫津は踊り念仏が盛んであった。
また、江戸時代から福原西国霊場巡拝も盛んになり、ご詠歌と踊り念仏をミックスして娯楽的な兵庫の庶民的な芸能が生まれた。
この連名には兵庫津の有力な町人や夫人たちの名が記され、踊り念仏だった様子がうかがわれる。
戦災・震災モニュメント
大輪田橋は神戸の誇る名橋として全国的に知られている。
1945年(昭和20年)3月17日の大空襲では、この橋近くに避難した500名を越すともいわれる市民が犠牲となり、橋も炎で真黒に焼け焦げた。
それから丁度半世紀、1995年(平成7年)1月17日の大震災でも大被害を受け、親柱などの石材が大崩落した。
修復にあたり旧石材破棄するに忍びず、ここにその一部をモニュメントとして保存した。
大空襲、大震災の惨禍を後世に伝え、また犠牲者に鎮魂のまことをささげるものです。
デザイン設計監修 京都精華大学 小林陸一郎教授(彫刻家)(現地案内板より)
薬仙寺へのアクセス行き方歩き方
〒652-0000 兵庫県神戸市兵庫区今出在家町
和田岬駅
駅からの直線距離 466m