萬福寺の総門は、1661年(寛文元年)の建立(重文)。
中央の屋根が高く、左右の屋根が低い牌楼式(ぱいろう)の中国的な門。
中央の屋根の左右に乗せられているのは想像上の生物・摩伽羅(まから)。
摩伽羅は、ガンジス河の女神の乗り物で、そこに生息しているワニをさす言葉だという。
聖域結界となる入口の門・屋根・仏像等の装飾に使われている。
隠元禅師は、中国明代末期の臨済宗を代表する費隠通容(ひいんつうよう)禅師の法を受け継ぎ、臨済正伝32世となられた高僧で、中国福建省福州府福清県の黄檗山萬福寺(古黄檗)の住持でした。
日本からの度重なる招請に応じて、承応3年(1654)、63歳の時に弟子20人他を伴って来朝。
のちに禅師の弟子となる妙心寺住持の龍渓禅師や後水尾法皇そして徳川幕府の崇敬を得て、宇治大和田に約9万坪の寺地を賜り、寛文元年(1661)に禅寺を創建。
古黄檗(中国福清県)に模し、黄檗山萬福寺と名付けて晋山。
萬福寺の三門前の句碑は、江戸時代に尼僧として諸国行脚に明け暮れた俳人・一字庵田上菊舎のもの。
1790年(寛政2年)に萬福寺を訪れて「山門を出れば日本ぞ茶摘うた」と詠んだ。
三門を出たときに、門前の茶畑から茶摘み唄が聞こえ我に返ったときの句だという。
売茶翁を煎茶の祖として祀る売茶堂の入り口。
萬福寺は、売茶翁ゆかりの寺でもある。
売茶翁、月海元昭(1675~1763)は佐賀出身。黄檗宗の僧侶だが、自ら茶道具を担いで京の大路に簡素な席を設けて煎茶を出したことで知られる。
茶代は随意で、茶を喫しながら禅道や世俗の話をした。
70歳で還俗し、「高遊外」と号して清貧の中、気が向くままに煎茶を売り歩く。
その客には相国寺の僧・大典など高僧や文人が多く、同時代の画家・若冲は売茶翁の生き方に憧れ、肖像画も描いている。
売翁堂の近くに茶具塚もあります。
門前、総門前にみられる「駒蹄影園(こまのあしかげえん)碑」。
鎌倉時代の初め頃、住民が茶の種のまき方がわからず困っていたところ、京都西北部の栂尾・高山寺の明恵上人が馬で畑に乗り入れ、馬のひずめの跡に種を蒔くように教えたといわれています。
これが宇治茶の始まりといわれ、大正15年(1926)に宇治の茶業組合によって建立された。
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