竹送りの寺 国宝十一面観音を拝む 大御堂観音寺

京都府京田辺市の『観音寺(大御堂)』は、奈良時代に、天武天皇の勅願により法相宗の僧・義淵が創建。
さらに、聖武天皇の勅願により良弁が伽藍を整え「普賢教法寺」と号し、十一面観音立像を安置。法相・三論・華厳の三宗を兼ねた大寺で、「筒城の大寺」と呼ばれていました。

しかし、たびたび火災に見舞われ、藤原氏の援助により幾度も復興されてきましたが、1437年の火事では、諸堂13・僧坊20余りの建物はほぼ焼失。

普賢寺と言う七堂の大伽藍の寺院で藤原氏の庇護の元、興福寺の末寺として発展してきた。
藤原氏の衰退とともに荒廃し、大御堂を残すのみとなってしまった。
現在は、1953年に再建された「本堂(大御堂)」と庫裡・鐘楼のみとなっています。

大御堂(おおみどう)と書かれた灯籠を見ながら参道を進む。

本堂には全国で7体だけの木心乾漆十一面観音立像(国宝)が安置される。
像高172.7㎝。奈良時代、8世紀の作。
一木造の心木のうえに木屎漆(こくそうるし)を盛り上げて造形した木心乾漆造で、この技法は奈良時代から平安時代初期に多用された。

頭上面の一部や台座蓮肉部も当初のものである。
また、本堂前の説明文には、「この像は、等身大の木心乾漆造であり、少年のような初々しい顔だち、引き締まった肉付きの良い体躯など、天平彫刻特有の緊張感がある。
奈良・聖林寺の十一面観音とよく比較されるが、ともに官営の造仏所で同じ奈良時代後半頃に製作されたものであろう」と説明がありました。

本堂には、現在、国宝に指定されている十一面観音像の一覧のような資料も作ってありました。
奈良の聖林寺・法華寺・室生寺、京都の六波羅蜜寺、大阪の道明寺、滋賀の向源寺(渡岸寺)、そして観音寺のものと、7体いらっしゃるそうです。
六波羅蜜寺の御本尊は秘仏となっているためなかなかお会いできませんが、こちらでは惜しげもなく御開帳いただき感激。

優しく女性的な面持ち。
ふっくらとした頬、慈愛に満ちた目元、しっかりとした胸部、流動的で綺麗な衣文、繊細で神経の細やかさが感じられる指先など、美しい仏像だ。
そして若い頃小浜の羽賀寺の極彩色の観音さまを、勅願の御施主、女帝元正天皇の御影といわれており、わざわざ観に行ったことを思い出した。
ただ残念なのは感激のあまり写真を撮り忘れたこと、旅から帰ってからも悔やんでいる。

広い境内に鐘楼のみがポツリと残る。

初代住職は、東大寺二月堂のお水取りを始めたとされる実忠であったことから、お水取りに使う松明の竹をここから送っている。
鐘楼の脇に碑が建つ。

境内は広い、春には桜や菜の花がきれいだという。
竹送りの寺           京田辺市観光協会のホームページから

奈良東大寺の二月堂の お水取りで使用する籠松明の 真竹を寄進する行事で、昭和53(1978)年に復活しました。
お水取りの別名を「 お松明(たいまつ) 」とも言い、その松明に使われる真竹は昔、山城地方をはじめ各地より送り竹の風習「 お水取りの行 」が近づくと、奈良に通じる
街道筋に寄進竹を置いておくと、奈良二月堂までリレー式に運ばれていましたが、いつしかその風習もなくなってしまいました。

しかし、市内の伝説や昔話を集録し書き残された話の中に「二月堂の竹」があり、戦前までは京田辺市あたりから、たくさんの寄進竹が送りだされていたことがわかりました。
このような由縁もあり、昭和53(1978)年に地域の方が中心となり、約40年ぶりに二月堂竹送りの行事を復活させ、平成23(2011)年で、33回目を迎えます。 
京田辺市普賢寺地区の、竹林で切り出した竹を、大御堂観音寺に運び、道中の安全を祈願します。

その後 竹に山城松明講の文字を入れ出発します。
東大寺修二会の項にも書きましたが、お水取りは十一面観音に過去の罪障を懺悔し、五穀豊穣などを祈る法要行事が主体なのです。

修二会と呼ばれるようになったのは平安時代で、奈良時代には十一面悔過法(じゅういちめんけかほう)と呼ばれ、これが今も正式名称となっている。
関西では「お松明(おたいまつ)」と呼ばれることが多い。
この観音寺も十一面観音の寺なので竹送りをするのです。

大御堂観音寺へのアクセス、行き方歩き方

京田辺市普賢寺下大門13
TEL:0774-62-0668
JR・近鉄「三山木」駅下車徒歩25分