左手は日吉東照宮、徳川家康公は没後、静岡の久能山東照宮、後に栃木の日光東照宮にお祀りされましたが、東照宮造営に縁の深い天海上人が天台宗の僧侶であったこともあり、元和九年(1623)徳川三大将軍家光公の時に比叡山の麓に造営されました。
その際には本殿と拝殿を繋ぐ「権現造り」という様式を用い、できあがった社殿が素晴らしく、その様式を基に日光東照宮を再建したといわれています。
権現川、朝日を受けて流れがきれいです。
権現とは、仏・菩薩(ぼさつ)が衆生(しゅじょう)を救うために仮(かり)(権)の姿をとって現れること。
本来、仏教で用いられたことばであるが、平安時代になると、権現は、わが国の諸神と結び付き、日本の神々を仏・菩薩が衆生を済度(さいど)するために仮に現れた姿であると考えるようになり、諸神を権現号でよぶようになった。
春日(かすが)権現、山王(さんのう)権現、三島(みしま)権現、熊野(くまの)権現などの類であるが、このような権現号も1868年(慶応4)3月の神仏分離によって廃止された。
早尾地蔵尊(六角地蔵堂)は、変じて真盛上人(西教寺開山)として現れ、入寂の後に再び地蔵尊に復したと言われる。
そのため、地蔵前に次の歌が書かれている。
伝教の彫みおかれし石地蔵 姿を変えて出ずる真盛
伝教大師が、童子養育に心を注ぎながら地蔵を彫ったので、「子育て地蔵」とも呼ばれている。
聖徳太子が開山した西教寺ですが、この寺を15世紀後半に再興したのは、一日も絶えることなく念仏を唱える不断念仏で有名な真盛上人(しんせいしょうにん)です。
さらに西教寺を有名にしたのが、1493年の法難時に、手の白い猿が現れ、念仏の鉦(かね)を打ち続けたという言い伝え。
それ以降、身代わりの猿は、護猿(ござる=まもりざる)として縁起の良いものと考えられています。
右手は、日吉馬場からケーブル坂本駅へ、美しい石積みを眺めながら山の辺の道へ急ぐ。
石積みの美しさと、紅葉の美しさにいつも心洗われる。
大宮川、走井橋を渡り日吉大社への道。
ここも紅葉が大変美しい場所だが今日はパス。
東本宮のすぐ東側をほぼ北方向に向かう小径が山の辺の道です。
うっかりすると見過ごしてしまいそうな細い道。
この道で、西教寺まで約900m、15分位を目標に西教寺を目指します。
スタート地点となる日吉大社東本宮の桜門下に「猿の霊石」(写真)があります。
山の辺の道へは東本宮桜門東側から入って行きます。
まるでしゃがんでいるような猿の霊石、日吉神社では、猿を神の使い、魔除けとして「神猿(まさる)」と呼んでいるのです。
「山の辺の道」というと、日本最古の道として知られる奈良の古道を思い浮かべる方も多いでしょう。
一方、坂本の「山の辺の道」は、日吉大社から900m程、約15分で天台真盛宗総本山・西教寺まで。素朴な千体仏地蔵や、西教寺からの琵琶湖一望の絶景も楽しめます。
なだらかに左右にカーブしながら多少の高低差がかえって興味をそそる道です。
山の辺の道に入るとすぐ左手に日吉古墳群の案内板と岩穴が現れます。
古代の歴史を感じることができます。
比叡山延暦寺への人々の憧れが今も色濃く残る古道。
右手が田んぼにかわると琵琶湖が全体に広がる光景。
大パノラマをゆっくり堪能して歩きます。
以前の散策記録、琵琶湖絶景!日吉大社から西教寺へ~山の辺の道を行く
昔、日吉大社の北側に八講堂と呼ばれる谷があり、寺屋敷が残っていたそうです。
比叡山は、行者の修行場の為、一般の人の参詣は不可。
比叡山へのあこがれから、遠く比叡山から聞こえてくる読経に合わせ山麓の人々が小さな地蔵尊を谷のあちこちに祀り成仏を祈ったといわれています。
こうした地蔵尊が少し掘り起こされたものがいつの間にかこの場所に集められ、「千体仏地蔵」と呼ばれるようになったそうです。
いずれも30cmから大きなものでも70、80cmほどで丸みを帯びた仏様です。
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