紋所が引き合わせた縁と沖田総司の女性関係が取りざたされる興味尽きない寺です。
門前には新選組の墓と書かれている。
墓への参拝は、左手のくぐり戸から入りそっとお参りする。
光縁寺は、1613年(慶長18年)頃に創建された浄土宗の寺で、知恩院の末寺にあたります。
光縁寺は京福電鉄四条大宮駅に近い浄土宗のお寺で、知恩院の末寺にあたります。
新撰組ゆかりの壬生寺や前川邸・八木邸からも近く、また新撰組の馬小屋も近かったため、幕末当時は門前を新撰組隊士が毎日のように往来していたそうです。
新選組副隊長であった山南敬助は、寺の瓦に「丸に右離れ三つ葉立葵」が山南家と同じ家紋であったことから当時の住職である良誉上人と親交が生まれ、屯所で切腹した隊士などが埋葬されることになったという。
また、山南自身も新選組を脱走して、旧前川邸に戻されて切腹。
介錯は山南の希望で沖田総司が行なった。
そして、光縁寺に埋葬された。
隊士の墓は本堂の右手を裏に回り込んだところ、一番奥にあります。
光縁寺墓地に現存する墓。
写真左:合同墓で、正面に松原忠司、桜井勇之進、小川信太郎、市橋鎌吉、田内知、右側面に田中寅三、加藤羆、左側面に矢口健一郎、佐野七五三之助、中村五郎、茨木司、富川十郎の名が刻まれています。
写真中央:大石造酒蔵(一橋家附臣、新選組観察大石鍬次郎の弟)の墓。
新選組隊士の今井裕次郎に斬られたとも、病死だったとも言われています。
写真右:山南敬助の墓。
右側面に河合耆三郎、柴田彦三郎、左側面 に施山多喜人、石川三郎の名が刻まれています。
そして問題はこの墓。
正面に真明院照誉貞相大姉、側面に沖田氏縁者と刻まれています。
この墓は、昭和51年に当時の住職によって建てられたもので、沖田氏縁者は過去帳に記載はあるものの墓は存在せず、寺に対する問い合わせが数多く寄せられたため、参拝者に明示するための措置だったそうです。
総司の女性関係
壬生光縁寺には、過去帳に「沖田氏縁者」と書かれた女性の記録があり、これが沖田の恋人ではないかとも言われている。
一説には、この女性は石井秩という未亡人で、連れ子(娘)が1人おり、沖田はこの女性との間に1女をもうけキョウという名を付けたという話もあるが、定かではない。
なお、新選組にはもう1人「沖田承之進」(慶応元年4月、土方らが江戸で募集した隊士の1人)という沖田姓の隊士が居り、過去帳の「沖田氏」は承之進の方では無いか、との説もある。
さらに、試衛館で手伝いをしていた女性(気が強い男勝りな性格だったようだ)に「結婚してくれ」と告白され、「修行中の身ですので」と断ったという逸話も残っている(その女性は断られたショックでか自殺未遂を起こし、その後近藤の口利きにより他家に嫁いだようだ)。
この女性は近藤周平の許婚であったと言われる岩田コウという説もある。
また、油小路にあった旅館里茂の娘・キンとは馴染であったと言われている。
諸説がありますが、どれが正しいかは決め手がないようです。
光縁寺へのアクセス、行き方歩き方
住所:京都市下京区綾小路通大宮西入四条大宮町37
電話番号:075-811-0883
拝観時間:9:00~17:00