坂本龍馬 葬送の道を訪ねる

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本日の目的は竜馬葬送の道を訪ねることにある。
現在では高山寺参道脇の道を上がり、京都霊山護国神社より訪ねるのが普通だが、当時、実際に葬送の行列が進んだ道はそうではないのだ。

実際の葬送の列は二年坂から霊鷲山正法寺の参道を霊明神社に向かったに相違ありません。

霊明神社へはかなり急な坂道を上ることになります。
当時はこのようなきれいな階段があったかどうかわかりませんが、かなり難儀をしたことと思われます。

葬送に参加した宮地彦三郎の略伝によれば、葬送を妨害する者があったらしく、参列の者は懐にピストルや、袴の下に匕首(あいくち)を忍ばせていたそうです(『宮地彦三郎真雄略伝』)。

坂の途中に幕末志士葬送の道碑が建てられています。
碑文
(表)坂本龍馬 中岡慎太郎 など幕末志士葬送の道
(右)此東南 吉村虎太郎ほか天誅組志士墓所跡
(左)正法寺 霊明神社 参道

碑文
この道は、当地の東突当たりにある霊鷲山正法寺の参道です。
「霊山正法寺道」などといいます。
その境内に、文化6年(1809)、地下(六位以下の貴族)の村上都愷が霊明社(現霊明神社)を創建しました(霊明神社文書)。

徳川政府の宗教政策により、原則すべての国民が仏教徒とされていた時代に、神道による葬式(神葬祭)を始めたのです。
幕末期、3代目神主村上丹波都平のとき、神葬祭を進める長州毛利家などと縁ができ、在京志士の葬送・祭祀の地とされてゆきました。

文久3年(1863)7月29日、長州系志士である土佐の吉村虎太郎が、前日に亡くなった友人宮地宜蔵の埋葬・祭祀を依頼したり(同日付村上都平宛吉村虎太郎書翰)、元治元年(1864)3月4日、長州の久坂義助(玄瑞)が、先祖の永代供養を任せたほか(同年3月25日付妻宛書翰)、同年6月7日、池田屋事件で亡くなった吉田稔麿らの遺体を長州屋敷が埋葬したことはほんの一例です(同年6月13日付里村文左衛門ほか宛塩屋兵助ほか書翰)。

慶応3年11月17日(1867年12月12日)夜、2日前に河原町蛸薬師の近江屋新助方で、京都見廻組の襲撃を受けた坂本龍馬・中岡慎太郎・龍馬の家来藤吉も霊明社に葬られました(同年12月4日付中岡源平宛清岡半四郎書翰)。
彼らの遺体はこの道を通ったに相違ありません。

維新後は、明治新政府の方針で、霊明社・村上氏の所有地の大半が没収(上知)され、創建まもない東山招魂社に譲られてしまいました(霊明神社文書)。
現在、龍馬らの墳墓がその後身である霊山護国神社の所有・管理とされているのは、以上の理由によります。

長州志士や龍馬らの遺体が、もともとこの道を通って霊明社に託されていたという歴史事実を忘れてはなりません。
幕末史蹟としての霊明神社を認識され、龍馬らの墓参(霊山護国神社の参拝)とあわせて、霊明神社へもお参りくださることを願います。

なお背後の墓地には、もと「土佐高知藩神霊社」があり、東側の小高い部分(現在マンションの建っている地)には、大和国(現奈良県)で挙兵・戦死した、前述の吉村虎太郎ら天誅組志士の墓がありました。

現在は霊山護国神社内に移されています。
2010年(平成22年庚寅)10月
歴史地理史学者
 中村武生

龍馬は慶応3年(1867年)11月15日に近江屋で盟友中岡慎太郎とともに襲撃され絶命。
2日後に霊明社(現・霊明神社)に埋葬された。

新暦では埋葬日が12月12日になる。左奥には下僕藤吉の墓があります。
今でも参拝者は引きも切らず、香華も絶えることがありません。

墓前には中岡慎太郎、竜馬の像がある。

長くなるが竜馬最期の様子を司馬遼太郎「竜馬がゆく」より抜粋する。
数人の武士が、近江屋の軒下に立った。
午後9時すぎであった。
刺客である。中略。

ひとりが土間に入り、二階へ大声で来意をつげた。
二階表の間に藤吉がいる。
藤吉は削っていた楊枝をおき、階段を踏んで土間におりると、暗い土間に武士が一人立っていた。

「拙者は十津川郷士。坂本先生ご在宅ならばお目にかかりたい。」と、名刺を藤吉にわたした。
十津川郷士の何人かは竜馬と懇意だし、しかも相手はひとりである。
藤吉はうたがわずにその名刺をモって階段をのぼろうとした。
(いる)と刺客は見ただろう。

事実、そう見た。
ひとりはそのまま。
入れかわって三人が藤吉の後を追い、のぼりつめたところで、いきなりその背を真二つに斬りさげた。

藤吉は叫び、刺客は叫ばせまいと思い、六太刀斬リ、絶命させた。この間、数秒である。
二階奥では、竜馬と中岡とがむかいあっている。
一枚の紙を真中にし、近視の竜馬は這うような姿勢でその紙片に見入っていた。
一間へだてたむこうで騒ぎが気こえたが、竜馬は峰吉が帰ってきたものとみた。
峰吉は平素、藤吉にたわむれて角力の手を教えてもらったりしていたが、いまもそうだと思ったのだろう。

這うように紙片に見入ったまま、「ほたえなっ」とどなった。
土佐言葉で、騒ぐな、という意味である。

この声で、刺客たちは討つべき相手の所在を知った。
電光のようにかれらは走った。
奥の間にとびこむなり、一人は竜馬の前額部を、一人は中岡の後頭部を斬撃した。
この初太刀が竜馬の致命傷になった。
撃たれてから、竜馬は事態を知った。
が、平素剣を軽蔑し、不用心でいる。このため、手もとに刀がなかった。

刀は床ノ間にある。
それをとろうとした。
脳漿がながれているが、竜馬の体力はなお残されている。
竜馬は床ノ間の佩刀陸奥守吉行をとろうとし、すばやく背後へ身をひねった。
この一動作を刺客は見のがさない。

竜馬の左手が刀の鞘をつかんだとき、さらに二ノ太刀を加えた。
左肩さきから左背骨にかけて、骨を断つ斬撃を竜馬は受けた。
が、この瞬間、この若者の生命がもっとも高揚した。

竜馬は跳ねるように立ちあがった。
同時に、刀を鞘ぐるみのまま、左手でつかをにぎり、右手で鞘をつかみ、鞘を上へ払いとばそうとしたが、敵の三ノ太刀はさらにそれをゆるさない。
もっともはげしく斬撃してきた。

竜馬は刀を抜くゆとりもなく、鞘ぐるみでその三ノ太刀を受けた。
火が散り、鉄が飛んだ。
おどろくべきことであった。
敵の斬撃のすさまじさは、竜馬がもつ陸奥守吉行の太刀打の部分から二十センチばかり鞘を割り、なかみの刀身を十センチばかりきってけずったことであった。

瞬間、半月形の鉄片が飛んだ。
敵のわざのすさまじさもさることながら、致命傷を受けつつも、なお鉄をきるまでの斬撃を受けえた竜馬の気迫は尋常ではない。

切った勢いで敵の太刀は流れ、流れて竜馬の前額部をさらに深く薙ぎ斬った。
竜馬はようやく崩れた。くずれつつ、「清君、刀はないか」と、叫んだ。
清とは、中岡の変名石川清之助のことである。
この場にいたってもなお中岡を変名でよぶ配慮をしたのは、竜馬の意識が明確であった証拠であろう。

以上も以後も、すべて事件の翌々日に死んだ中岡の記憶による。
中岡にも刀をとる余裕がない。
九寸の短寸しかない。
信国在銘、白柄朱鞘で、鍔はついているものの、脇差というより匕首のみじかさである。これをもって敵の太刀と渡りあったが、十一カ所に傷をうけ、ついに倒れ伏した。
わずか数分、気絶していたらしい。
しかし、すぐ息を吹きかえした。
このとき敵がひきあげるときであった。

ほどなく、竜馬もよみがえった。
この気丈な男は、全身にわが血を浴びながら、すわりなおしたのである。
中岡は顔をあげ、その竜馬を見た。
竜馬は行燈をひきよせ、わが佩刀の鞘をはらって刀身をじっと見入った。
「残念だった」
思えばそうであったろう。

千葉門下の逸足として剣名を江都に轟かせた青春をもちながら、鼠賊同然の刺客に不意をおそわれ、しかも剣さえ使えなかったことをおもうと、無念やるかたないにちがいない。
「慎ノ字、手がきくか」と、竜馬はたずねた。
中岡は伏せながらうなずき、「利く」と答えた。
利くなら這って階下の近江屋の家族をよべとでも竜馬は言いたかったのかもしれないが、中岡の方が自分よりも重傷とみたらしい。
竜馬は自分で這い、隣室を這いすすみ、階段の口まで行った。

「新助、医者をよべ」と、階下に声をかけたが、その声はすでに力がうせ、下までとどかない。
竜馬は欄干をつかみ、すわりなおした。
中岡も這って、竜馬のそばにきた。
竜馬は、外科医のような冷静さで自分の頭をおさえ、そこから流れる体液を掌につけてながめている。
白い脳漿がまじっていた。

竜馬は突如、中岡をみて笑った。
澄んだ、太虚のようにあかるい微笑が、中岡の網膜にひろがった。
「慎ノ字、おれは脳をやられている。もう、いかぬ」
それが、竜馬の最後のことばになった。

言いおわると最後の息をつき、倒れ、なんの未練もなげに、その霊は天にむかって駆けのぼった。
(司馬遼太郎「竜馬がゆく」より抜粋)

後に残った中岡は重傷ながらも暗殺時の状況を土佐藩士に伝え2日後位に息絶えた様です。
その翌月に「王政復古の大号令」が発令されて新しい日本が誕生するのでした。
坂本龍馬は死ぬ間際「残念、残念」と呟いていたそうです。

殺害された日は龍馬の誕生日、これが命日となってしまいます。
暗殺犯については、新撰組犯行説、薩摩藩陰謀説など様々な説があるが、現在のところ、京都見廻組という説が有力である。

見廻組は佐々木只三郎(1833-1868)を与頭とし、渡辺吉太郎、高橋安三郎、桂早之助、土肥仲茂、桜井大三郎、今井信郎らが暗殺に関与していたとされる。
近年、龍馬を斬ったとされる小太刀が発見された。

刀の持ち主は見廻組の一人である桂早之助である。
つまり佐々木只三郎の指揮のもと桂早之助が龍馬を斬ったのだ。
だが佐々木も桂も翌年の鳥羽伏見の戦であっけなく戦死したので、事件の詮議はされなかった。
新史料の小太刀の鑑定については未だ謎が残る。

龍馬と中岡の墓の近くから望む京都の街並み。

現在では高山寺参道脇の道を上がり、京都霊山護国神社より訪ねる。

京都霊山護国神社は明治元年に初の官祭招魂社として創建され、その当時は霊山官祭招魂社といいましたが昭和14年に現在の名に改称。

幕末の長州、土佐、筑前、肥後といった各藩の殉難者ら549柱を祀ります。
その中には著名な方々の名前も数多くあげる事が出来ます。
坂本竜馬・中岡慎太郎・桂小五郎(木戸孝充)と幾松夫妻・吉田稔麿らの池田屋事件殉難烈士、久坂玄瑞らの禁門の変殉難の長州藩の面々・・・。

高杉晋作も忘れてはなりません。
後に太平洋戦争等の殉難者を合祀。
また霊山護国神社参道の第二の鳥居の辺りを「維新の道」と呼んでいます。

維新の道突き当たりには「木戸孝允勅撰碑」があります。
つまり、参拝者は一番最初に桂小五郎からの歓迎を受ける事になる。

内閣顧問勲一等贈正二位木戸孝允墓
明治三十四年五月廿六日以特旨被追陞従一位(右側の碑)
木戸孝允は、明治10年(1877)5月26日に京都別邸において病没しました。享年45。

勤皇の志士といわれる志士たちの最後は大方悲劇に終わっているが、明治10年(1877)5月26日に45歳で病没するまで、動乱の幕末を駆け抜け、維新後も活躍し、陽のあたる道を歩んだ幸運児ともいえる。

勤王芸妓の第一人者三本木の幾松とのロマンスは、文久元年の頃、桂小五郎28歳、幾松18歳、相思相愛の仲となり、激動の時代のなかで苦楽を共にし、そして結ばれた。

維新の大業成るや正二位公爵木戸孝允の妻となり、従四位を賜るほどの女傑。
此処霊山に建立されている勅碑からも伺え知ることができる。

木戸の没後は剃髪して翠香院と号し、京都木屋町に住して亡夫の冥福を祈りました。
明治19年(1886)4月10日没、享年44。

吉村寅太郎の墓
吉村寅太郎は、土佐藩の間崎滄浪らについて文武を学び、その成績極めて優秀にして、他の浪士たちより容姿端麗、同志間ではひときわ目立つ存在であったといわれる。

「おくに」という娘との清純な恋愛を通じ、ひととき青年としての喜びを感じた。
9月27日、傷を負い敗走中、大和鷲家口で藤堂藩兵に囲まれ、もはやこれまでと「吉野山風に乱るゝもみじ葉はわが打つ大刀の血けむりと見よ」と辞世を残し、銃弾を受ける。享年27歳。

梅田雲濱、頼三樹三郎の墓
大老に就任した井伊直弼はこれらを強行採決し、反勢力への弾圧が対抗策として施行され、小浜藩士・梅田雲濱、鷹司家の小林良典、頼山陽の三男・頼三樹三郎、長州の吉田松陰ら多くの有能なる学識者が次々とその対象として捕縛されるに至った。

その総数は百五十余人に及び、大部分が江戸送りとなり、斬首もしくは流罪と厳罰を受けた。
この大弾圧は全国の尊王攘夷派を激昂させる結果となり、「違勅の元凶 井伊を葬れ」とついに井伊大老は、安政6年(1860)3月登城途中、江戸城桜田門で水戸藩浪士に襲撃を受け殺害される。

仰ぐように見ることになる八坂の塔が一般的ですが、ここ竜馬の墓地からは見下ろすことになります。
夕映えの八坂の塔、上手に回ってのシルエットとなる八坂の塔は東山、いや京都を代表する情景です。

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霊山護国神社へのアクセス、行き方歩き方

JR京都駅、京阪四条駅、阪急河原町駅より
市バス祇園方面「東山安井」下車徒歩15分

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