大和川は奈良県桜井市の北東部、貝ヶ平山(かいがひらやま、標高822m)近辺を源流としており、上流部では初瀬川と称される。
川の名前は大和国・大和盆地に由来する。
奈良盆地を西に向かって流れつつ、佐保川、曽我川、葛城川、高田川、竜田川、富雄川など盆地内の大半の河川を生駒山系の手前までに合わせる。
生駒山系と葛城山系の間を抜けて、大阪平野に出ると柏原市で南河内を流れてきた石川と合流してまっすぐ西へと流れ、大阪市と堺市の間で大阪湾に流れ込む。
この辺りは天井川として知られる。
東は生駒山系、二上山まで眺めが効く景勝の地で堤防の上下は住民の散歩道として知られる。
流域の奈良県などで下水道普及が遅れているなどの原因で水質の悪い一級河川の一つであり、2009年の調査では関東の綾瀬川に次いでワースト2位であった。
現在は以前と比べて水質が大幅に改善されており、2010年調査ではワースト3位まで改善して環境省の水質基準も満たしている。
2007年11月には、アユの産卵も確認された。
なお、水質が悪くなる前より、古くからシラスウナギ(ウナギの稚魚)が採れることでも知られている。
チン電の愛好家にはあこがれの地です。
チン電と夕日
外出自粛で撮影もままなりません。 散歩がてら近所を撮り歩く日々。 画像は南海電車 … 続きを読む →
朝の陽を浴びながらの散策は清々しい。
路地の隙間からのぞく青空がきれいです。
我孫子道、大阪市内区間と堺市内区間の境界駅である。
我孫子道停留場
入庫列車以外の当駅止まり列車は、一度浜寺駅前方面へ引き上げてから出庫待機線に入って恵美須町方面ホームに入る。
ただし、大きな遅れが出た場合は直接車庫に入って折り返す(これなら2分弱もあれば折り返せる)。
なお、日中の当駅始発恵美須町行きは天王寺駅前行きが出発するまで出発待機線を出ないが、ダイヤ上少しでも天王寺駅前行きが遅れると一本後の恵美須町行き列車が出発待機線まで来る事がある(なお、出発待機線は2両分あるので浜寺駅前方面本線を塞ぐ事は無い)。
古代、『万葉集』では「白砂青松の名勝地」と詠われ、室町時代には「岸の辺の道」ともいわれ、江戸時代は「紀州街道」と呼ばれた、歴史を偲ばせる町「あんりゅう」。
商店街としての歴史は古く、江戸時代から街道として商売が盛んな町で今でも3~400年続く名家の方々が、街を守っています。
安立(あんりゅう)紀州街道の街並み
住之江区南東部に位置する。現行の安立一丁目から四丁目は、中央を紀州街道が走り、紀 … 続きを読む →
江戸初期、この土地に住んでいた「半井(なからい)安立」という名医を求め、国中から人が集まり、村ができた事から、安立さんがいる土地で安立(あんりゅう)と呼ばれるようになったという。
この街道沿いには、街道側は中二階、城側は民家から城が見えないように一階建てになっているなど、城下町の風情を残す町並みがあり、この道を歩いていると、歴史を感じます。
安立町の紀州街道沿いに「霰(あられ)松原公園」があります。
そこには、
「霰打つ あられ松原 すみのえの 弟日(おとひ)おとめと 見れど飽かぬかも」
(万葉集巻一)と描かれた歌碑があります。
この歌は、あられ松原を訪れた長皇子(ながのみこ)の詠んだ一首です。
長皇子は天武天皇の皇子で、
「あられの降るあられ松原を、住吉の弟日娘さんと一緒に見れば飽きないものだなあ。」
という詩なのですが、この「あられ松原」は現在の安立(あんりゅう)と言われています。
現在西成区内を通過する阪神高速堺線は、昭和45(1970)年に十三間堀川(十三間川とも呼ばれます)を埋め立てて建設されています。
現在の津守地域(旧津守村)は、江戸時代に海を埋め立てた津守新田として拓かれた土地です。
その津守新田の開発開始と同じ元禄11(1698)年に、津守新田の北端を流れる木津川から、用水路として津守新田の東側を南へ向けて新たに開削されたのが十三間堀川でした。
最初は中在家村(粉浜村)までの開削でしたが、その後宝永元(1704)年の大和川付替工事に伴い大和川にまでつながることとなりました。
そしてこの結果川の流れが変わり、大和川から北へ流れ木津川へと合流する流れとなりました。
治水工事で有名な河村瑞軒の設計による運河だという説も伝わっていますが、開削当時の検地帳により津守新田の地主の費用で開削されたものであることが確認されています。
十三間堀川(十三間川)の名の由来は、川幅が十三間(一間は約1.8メートル)あったこととされていますが、少なくとも津守新田の人々は十間堀と呼んでいたという記録があり、十三間の川幅があったとすると住吉高灯籠辺りから南の地域ではなかったかと言われています。
近所のカトリック住ノ江教会。
関連記事