昨年は所要で見送ったが今年は撮影に出向いた。
新しい視点で見てみたいなと・・・・
ただ今8時30分御所周辺は静かです、天候は曇りがちで時折りパラリ。
1392年(明徳3年)の南北朝合一によって名実ともに皇居に定まり、明治に至るまでの 約500年の間、天皇の住まいでした。
建物自体はその間も焼失を繰り返し、現在の建物は安政2年(1855年)に平安時代の内裏の姿にならって再建されたものです。
建礼門側から出口を見ています、最も場所取り競争の熾烈な場所、待ち受けるカメラマンで満員、この時間はもうすでにいいポイントはありません。
今8時30分、ここで12時の出発までじっと待ち続けるわけです、ご苦労様。
先人たちが散々撮りつくした手あかにまみれたアングルなんて何の新鮮味が見いだせるのかな。
こちら、行列参加者の集合場所、まだ誰もいません。
時折り、一番いい撮影場所はどこ?って聞かれるけどそんそなん自分で決めるしかないで。
雰囲気の詠めない人が多すぎる。
白川女達が頭に乗せる花が無造作に置かれている、もちろん造花だがね。
10時前です、白川女達が集合場所に現れました、はち切れんばかりの笑顔、いいですね。
白川は、比叡山の麓から知恩院前や祇園を流れる川の名で、源流あたりは近江へ出る山中越えの街道。
この里から、白い脚絆、かすりの着物に紅だすき、頭上の箕(みい)に切り花を盛り上げて、京の町へ売りに出てくる女性が白川女。
いま、その素朴で風雅な姿は見られなくなったが、地元の白川女風俗保存会で伝承されている。
午前九時から平安神宮で二基の鳳輦に桓武天皇・孝明天皇のご神霊をうつし、京都御所の建礼門前行在所へ神幸列が到着。
京都で生涯を終えた最初と最後の天皇は、毎年この時に市中の繁栄を眺めて都大路を巡られる。
最近は口取り(お馬さんを引く方)も若い女性が多くみられる、しかも美人だ。
維新勤王隊列が入場、これから行われる神事に参加します。
明治維新の際、幕府の遺臣が東北地方で反抗した時、丹波の国北桑田郡山国村(現在・右京区京北)の有志が山国隊を組織して、官軍に参加した当時の行装を模したもので、三斎羽織(さんさいはおり)に義経袴をはき、下には筒袖の衣、頭に鉢巻または赤熊(しゃぐま)をかぶり、脚絆、足袋、草鞋をはき、刀を身につけ、鉄砲を携えた姿です。
また、肩章をつけ階級をあらわしているところなど、近代の軍制への過渡期を示している。
この山国隊は、時代祭の始まった当初より同村有志が奉仕していましたが、大正10年より朱雀学区が引継いで現在の名称で奉仕している。
そろそろ神事の始まり、白川目もスタンバイ。
今10時30分、行列の終わる3時前まで頭に花をのせたままのすがたです、たいへんな重労働です。
豊公参朝列の牛車、盛儀に使われた牛車で、檳榔毛唐庇車(びんろうげからひさしぐるま)といい、蒲葵(びろう)の葉で葺き、すだれなどの色文(いろあや)装具は最高の様式のもの。
豊臣公参朝のうち、慶長元年(西暦1596年)5月の秀頼初参内(朝廷へ参上すること)と、同2年9月の元服の時は最も盛儀であったと伝えられていて、本列はその様相を模したものです。
牛車の轅(ながえ)の先端にも五七桐紋(豊臣秀吉の家紋)が。
桐紋は元々は天皇家の家紋でした。
菊紋に次ぐ紋でしたが天皇家が功績のあったものに下賜したために武家に広まりました。
豊臣秀吉も下賜されました。
轅とは車の前方、左右に長く前に出ている木のこと。
車軸の先端にも五七桐紋、とにかく最大限贅を尽くしたものです。
内閣の紋も桐紋です。
明治維新が西軍豊臣家の270年越しの怨恨晴らしの復讐だとすれば、東軍徳川家を打倒し、新しい時代が新しい装いとなって幕が切って下ろされた時に、新政府が使用したのが「豊臣家の桐紋」というのも合点がいくのではないだろうか。
これらのことから、元々豊臣が掲げていた家紋を、あえて政府公式の紋として採用することで、徳川家への恨みを晴らそうとしたのではないか、というのだが・・・・
祇園のきれいどころの行列の旗持ちの女性たちは行列出発の直前まで暇なのです。
カメラマンの求めに応じてポーズをとったり。
仲間内で記念撮影をしたりとのんびり過ごしています。
相方の祇園のきれいどころが出発直前まで現れないのです。
これは2011年の時代祭の画像ですが、当時は祇園のきれいどころも一般の参列者と同じように早くから集合場所に集まって出番を待っていました。
その後、さらし者になることを嫌ったのか、出発間際にタクシーで乗り付けるようになりました。
早速素人カメラマンが取り巻きえらい騒ぎになります。
この日も彼女たちが現れたのは出発30分前の11時30分でした、タクシーが現れるや、御所を後にして次の撮影場所、平安神宮へ向かった。
撮られるのを嫌がっている人をなんで撮らなあかんのや。
12時の出発です、この時間腹ごしらえの時間です。
こちらでも地べたに座り込んで腹ごしらえ。
つまらなそうな顔つきのお嬢さん。
足元を見るとなるほど、つくろいものの最中だ。
桂女にふんしたお嬢さん、一瞬カメラ目線。
「桂女」の特徴とされる、白い布で頭部を覆う「桂包」(かつらづつみ)は、三韓征伐(神話的出来事とされる)の際に、神功皇后から「桂女」の始祖が頂戴した腹帯に由来するという伝説がある。
「桂女」の始祖は、武内宿禰の娘「桂姫」であり、「桂姫」が伝えた飴の製法が、のちの「桂飴」となったとも伝えられる。
手に曲げ物の器を持つ。