御堂筋は全長4、027メートル、幅43.6メートル、全6車線の幹線道路で、日本の道100選のひとつ。
名前は北御堂(本願寺津村別院)と南御堂(真宗大谷派難波別院)が沿道にあることに由来する。
今回は梅田~中之島までの散策です。
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阪神前・阪急前のロータリー北に位置する阪急百貨店うめだ本店。
淀屋橋交差点以北は梅田新道が母体となっており、1911年(明治44年)の大阪市電敷設の際に幅員21.8メートルに拡幅されていたこともあって、大江橋北詰交差点以北の拡幅工事は1927年(昭和2年)に早々と竣工。
江戸時代諸街道の起終点は、高麗橋であった。
その後、道路法の制定で国道ルートの整備がされ、大正11年には現大阪市役所前に設置された。
さらに昭和27 年新道路法が成立(このとき、東京-大阪間国道2号が1号になった)、道路元標も現在位置に移設された。
東からは国道1号の終点、西へは国道2号の起点、南からは国道25号の終点、北からは国道176号の終点となる。
さらに、国道1号と重複する国道163号の終点、国道25号と重複する国道26号と国道165号の起点でもある。
四方に異なる国道が出ているのはここだけだそうだ。
この辺りは、古くは淀川とその支流に囲まれた砂州で、水辺に突き出たところ「さき」でした。
石ころだらけの荒れ地であったため、やせた土地や岩の丘をいう「そね」から転じ「曽根崎」と呼ばれるようになったそうです。
15世紀ころから農村へと開発され、江戸時代の初め頃は菜の花見物で賑わうのどかな村だったそうです。(看板より)
曽根崎川はかつて堂島川から分かれてここから南よりのところを東西に流れ、俗に蜆川(しじみがわ)ともいわれていた。
元禄年間に河村端軒がこの川を改修してから堂島新地・曽根崎新地が開かれた。
そのころの新地の茶屋は蔵屋敷や商家の人々の集うところとして親しまれ、このあたりからは北野や中津の田畑越しに北摂の山々が遠望でき、夏の夕べには涼み船がこの川からこぎ出たという。
近松門左衛門の作品の中には、惣島新地・曽根崎新地を部台にしたものがあり、中でも「心中天網島」(1720年の作)の一節名残の橋づくしには、当時曽根崎川に架けられていた難波小橋・蜆橋・桜橋・緑橋・梅田橋の名がたくみに取り入れられている。
しかし、この曽根崎川も明治42年(1909)の北の大火後に上流部、ついで大正13年(1924)には下流部が埋め立てられ、昭和20年(1945)の戦災でこのあたり一帯は焼失したが、今日では北の新地としてにぎわいを取り戻している。
かつての淀川本流であるが、淀川放水路が開削された1907年(明治40年)以降は旧川扱いとなっている。
中之島より上流が大川、または天満川(てんまがわ)、下流が安治川と呼ばれる。
中之島では南北両岸に分かれ、北が堂島川、南が土佐堀川(とさぼりがわ)と呼ばれる。
土佐堀川付近は豊臣時代、土佐商人の群居した土佐座の地といわれ、河川名の「土佐堀川」もそこからきたと伝えられている。
北側の堂島川が「裏川」に対し、南側の土佐堀川は「表川」とも呼ばれ、江戸時代には岸沿いに各藩の蔵屋敷が建ち並び、諸国の物産を積んだ船の出入りで賑わい、大坂商人の活躍の場だったそうだ。
中之島(なかのしま)は、大阪市北区、堂島川と土佐堀川に挟まれた、東西約3km、面積723,266㎡の細長い中洲。
大阪市中心部の道路網は碁盤の目のようになっており、中之島もそれに組み込まれている。
中之島の北側には東西に中之島通が走り、南北に走る新なにわ筋、あみだ池筋、なにわ筋、四つ橋筋、御堂筋が交差する。
ほかに中央公会堂前交叉点から三休橋筋がはじまるほか、堺筋と天神橋筋が中之島を縦断する。
駅逓司(えきていし)大阪郵便役所跡
わが国最初の郵便制度が設けられたのは、明治4年(1871)3月のことである。
まず大阪-京都・東京間の開設があり、ここにその郵便役所がおかれた(元島原藩蔵屋敷)。
さしずめ今日の中央郵便局にあたるものであった。
ポストも設置されたが、最初の3日間で53通が投かんされ、東京までの所要時間は約75時間であった。
北区中之島二丁目 日本銀行大阪支店前
地下鉄御堂筋線・京阪電車「淀屋橋」下車
北約100m
「陽だまりに遊ぶ」藤木康成作
淀屋(よどや)は米市以外にも様々な事業を手掛け莫大な財産を築くが、その財力が武家社会にも影響する事となった事により、幕府より闕所(財産没収)処分にされた。
しかし、闕所処分に先立ち伯耆国久米郡倉吉の地に暖簾分けした店を開き、後の世代に再び元の大坂の地で再興した。
幕末になり討幕運動に身を投じ、殆どの財産を自ら朝廷に献上して幕を閉じた。
淀屋を創業した岡本家によるものを前期淀屋、闕所後に牧田家により再興されたものを後期淀屋と呼ぶ。
闕所の公式な理由は「町人の分限を超え、贅沢な生活が目に余る」というものだった。
しかし諸大名に対する莫大な金額の貸し付けが本当の理由であろうとされている。
淀屋辰五郎の屋敷跡が京都府八幡市にあるが勅祭 石清水祭で紹介している。
淀城の敷地内に、大坂淀屋寄進の高灯籠がある。
淀屋ゆかりの片岡正英・政冬が、1759年に灯籠を寄進したものという。
江戸時代初期、大坂淀屋の初代・岡本与三郎(淀屋常安)は、淀の岡本荘に生まれたとも、淀に家、田地も所有していたともいう。
大阪と京を結んだ水陸の要所 淀城で紹介している。
淀屋は自身が拓いた中之島に米市を開き、また中之島に渡るため淀屋橋を自費で土佐堀川へ架けた。
米市に集まる米を貯蔵するため、諸藩や米商人の米を貯蔵する蔵屋敷が中之島には135棟も立ち並んでいた。
また1620年代、全国の米の収穫は約2700万石有り、自家消費や年貢で消費される分を除く約500万石が市場で取引きされていた。
その4割の約200万石が大坂で取引きされていたと言われている。
林市蔵は第十五代大阪府知事だが、「方面委員(現民生委員)制度」を定めたことでも知られる。
大正七(一九一八)年晩秋の夕暮れ、市蔵は淀屋橋(大阪市中央区)南詰めにあった理髪店「モーラ館」で整髪中、ふと鏡に映っている風景に目をとめた。
橋のたもとで幼児を背負った中年の女が新聞を売っている。
「ちびたげた、汚れたうわっぱり、枯れ葉を舞い上げながら吹き抜ける秋風と、薄暗い街灯がいっそう疲れた表情をひきたてていた」
と後に語ったと伝える市蔵は、散髪が済むと気さくに語り掛け、彼女の身の上話に耳を傾けた。夫が寝込み、家具や布団まで売りつくしたが、物価の騰貴で生活できず、上の二人の子どもは学校をやめて新聞売り。
それでも苦しいので看病の合間にこうして自分も手伝っています-との話に、市蔵は思わず目頭を押さえる。
これが方面委員制度を創設するきっかけになったといわれるが、本当はこの年の十月七日に制度は発足しており、そうではあるまい。
ただし、このエピソードは実話で、淀屋橋派出所巡査七藤健之助の、北警察署長辻野右市にあてた復命書が現存している。
中の島にある林市蔵像。
江戸時代、水運に恵まれたここ中之島周辺には各藩の蔵屋敷が立ち並び、活況を極めていた。
そのひとつ、島原藩の蔵屋敷跡で、実業家の五代友厚の別邸があった場所へ1903(明治36年)に建てられたのが日本銀行大阪支店。
明治建築界の第一人者・辰野金吾の設計によるネオ・ルネッサンス様式の建物で、青緑色の円屋根が印象的だ。
気品ある美しさを外から眺めたら、今度は館内も。見学希望日の3ヶ月前から2週間前までに郵送で予約すれば、内部見学(ガイド付き約1時間10分)できる。