この寺の開山は、南北朝時代に北朝初代の天皇となった光厳上皇である。
光厳上皇は観応3年/正平7年(1352年)、大和国賀名生の南朝後村上天皇行宮にて落飾(出家)し、禅宗に帰依した。
帰京の後、貞治元年/正平17年(1362年)、丹波山国庄を訪れ、同地にあった成就寺という無住の寺を改めて開創したのが常照皇寺の始まりである。
上皇はその2年後に示寂し、当地に葬られた。
戦国時代には一時衰退したが、その後復興され、江戸時代には徳川秀忠から寺領として井戸村の50石を与えられた。
長い参道を進むと山門が見えてくる。
勅額複製「仰之弥高」、開山光厳上皇筆という。
築地塀は古さびて威厳さえ感じさせる。
築地塀の定規筋について。
皇族や摂家などの御所に用いられた。
皇室に由来する格式を表し、その格式の高さにより三本、四本、五本の種があり、五本を最高とする。
皇族や摂家が入寺した門跡寺院などでも用いられその権威の象徴となったが、用材を下げ渡すという名目で由緒寺院などに与えられることがあり、直接の由緒をもたない寺院でも使用されていることがある。
「定規筋は格式を表わすものですから、5本、4本なら兎も角わざわざ3本や2本、ましてや1本の筋を見せびらかして、私たちの格式はこの程度ですなんて宣伝する事はしません。
でも塀の外側には引かれていなくても塀の内側にはしっかり3本、2本、1本の筋が引かれているところもありますよ」との事。
加茂町の浄瑠璃寺が三本線で、出町柳近くにある萩の寺でお馴染みの常林寺と同じ並びで20mほど北にある長徳寺が四本線でした。
南禅寺の金地院も4本線ですね。
天皇や摂関家の子弟が門主に入られたお寺が5本線でしたね。
その後室町時代になって足利家が認めたお寺に5本線が入るようになって、江戸時代にはもっと増えていった様に思います。
明治の廃物希釈運動にともない今では5本線のお寺が沢山有ります。
3本4本を探す方が面白い。
ただ、歴史由緒が無い新興宗教組織などでは「デザインとして7本を用いている」場合があるようです。
山門より勅使門を見上げる。
戦国期の一五七九(天正七)年、丹波の守、明智光秀の山国全焼戦による寺域全壊の後、江戸期の後水尾天皇の「ひねりこうし」のこぼれ話にあるように、志納などで漸次回復した。
また、幕末・明治期の王政復古もあって、皇室経済は由緒寺院への下賜金を繰り返し、堂宇庭園を拡大したが、第二次世界大戦のあおりにより多くの寺田や寺の資産は亡失。
その後、現在の姿に復元した。
碧瓢池。
庫裏、ここから参拝できる。
中庭には雪が残る、気温も3℃で時折り雪の舞う寒さ、さすが山国は寒い。
方丈の広間から庭を眺める。
方丈北の庭園。
冬真っ只中という感じで全くの色気なし。
廊下に吊るされた行燈の古さが威厳を感じさせる。
怡雲庵(いうんあん) – 開山堂とも。
木造阿弥陀如来と両脇侍座像(りょうきょうじざぞう)が天井近くの鴨居上の仏壇に安置されている。
方丈から勅使門を見る、一重と八重が一枝に咲く「御車返しの桜」など桜の名木があります。
「左近の桜」は御所から株分けされたといわれています。
桜の時期には大変賑わいます。
庭園から碧瓢池の方を見下ろすと苔が陽に照らされて何とも言えず神々しい。
2代目の九重桜は樹齢300-400年という。
手前に朽ちているのはかつての太い幹、2008年に落ちたらしい。
年々、樹勢が衰えているという。
現在、花を付けているのは枝一本のみとなっている。
開山の光厳上皇が南北朝時代、その犠牲者の慰霊のために建立したという小塔が、1994年、第二次世界大戦の犠牲者の慰霊のために再建されたという。
寺の背後には光厳天皇の山国陵、後花園天皇の後山国陵、後土御門天皇の分骨所がある。
香積門から見下ろす。
ちょうど京田辺の辺りで夕日を迎えた、光芒の美しい夕陽だ。
後土御門天皇は23歳で即位し、その在位中に応仁・文明の乱がおこり、京都はほとんど焦土になり、諸国に散在している宮廷の料地もそのあたりの武士たちに奪われ、天皇の後半生はほとんど飲まず食わずの状態になった。
在位が37年という、明治以前の天皇家としては異例の長期にわたったが、この天皇がそれに固執したわけではない。
譲位をしようにも即位の儀式の費用がなく、また譲位の後上皇として退隠すべき仙洞御所をつくる費用が無かったからである。
御所は、破れ寺のようになった。
その頃の模様は、「「御湯殿上日記」で推測することができる。
御湯殿上というのはひどくみやびた名前だが、要するに内裏の清涼殿の中にある一間の名称で、ここに天皇の身の回りの世話をする女官が詰めてい。
この日記はその女官の勤務日記で、室町中期から、えど末期までのものがのこっており、女官の文体や当時の物の名前、人の出入りなどを知るうえで便利がいい。
明応9(1500)年の正月頃から9月までほとんど連日、
「やくし寺まいる」
という言葉が出てくるのは、天皇が死の床につき、医者が脈をとりに来ているのである。
その年の9月27日になって、
「・・・・ほうきょ(崩御)なる」
という文章が出る。
しかし葬礼を行う費用がなかった。
このため遺骸は49日間黒戸の前に置かれっぱなしになるという悽惨な事態になった。
黒戸というのは薪の火でもって戸が煤けているからそういうのだというのが「徒然草」に出てくる解釈である。
普通の家屋でいえば今に相当し、清涼殿の萩ノ戸の北にある。
遺体がその黒戸で腐敗し、異臭が御所にみちたに相違なく、死者の名誉としてこれほど痛ましいことはない。
11月になってとりあえず葬儀が行われたが、棺が買えず、桶が用いられた。
深草の法華堂陵に葬られたが、その御分骨、この山国陵にうずめられた。
現実の南北朝というのはまるっきりの欲得の時代で、日本史の中でもこれほど没美学的な時代も珍しい。
「街道をゆく (4)」より
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常照皇寺へのアクセス、行き方歩き方
住所:京都市右京区京北井戸町丸山14-6
電話:0771-53-0003
JR京都駅から周山(JRバス)…約1時間30分
周山から山国御陵前(京北ふるさとバス)…約15分