岩村城は、大和の高取城(奈良県)備中の松山城(岡山県)と並ぶ日本三大山城の一つに数えられる名城。
岩村城の太鼓櫓は殿様の館跡。
この城が名城と言われる由縁は、単にその規模と大きさだけでなく、その永い歴史に由来しています。
1185年(文治元年)源頼朝の重臣「加藤景廉(かとうかげかど)」がこの地の地頭に補せられ創築されてから、鎌倉・室町の300年間、戦国の100年間、更に江戸期の300年間に亙り城と城主が連綿と続き、明治に至り廃城令で廃城されるまで、連綿と存続しました。
700年間に及ぶ城の歴史は、日本の城史にも例を見ないものなのです。
平重門と土塀。
城は江戸諸藩の府城の中でも最も高い所(標高717m)に築かれ、高低差180mの天嶮の地形を巧みに利用した要害堅固な山城で、霧の湧き易い気象までも城造りに活かされており、別名「霧ケ城」とも呼ばれています。
「成瀬櫻桃子句碑」。
「釈尊や 藩校大き 門ひらく」
藩校・知新館は元禄15年(1702年)に松平乗紀(のりただ)によって創立された。
美濃においては最初の藩校で、全国的にみても藩学としては古く、10指に入るといわれています。
藩士の子弟は八歳になると全員が入校して二十歳で卒業した。
岩村藩の儒学者「佐藤一斎」の銅像。
平成14年に藩主邸跡に建てられた。
一斎の弟子には佐久間象山、横井小楠、渡辺崋山らがいた。
三学戒
少にして学べば則ち壮にして為すこと有り、
壮にして学べば則ち老いて衰えず、
老いて学べば則ち死して朽ちず
(言志晩録六〇条)
看板には「巨木並木址 登城坂の巨木群伐採址 切株に注目」とある。
藤坂は険しい急坂で岩村城守備の前衛の役を持ち、一の門に至る約三百米の間を云う。
藤坂の名は伝説として岩村城を創築した加藤影兼の妻重の井が紀州から藤の実をとりよせて植えたことから始まったと云われ、藤にまつわる伝説が幾つかある。(説明板から)
比較的まっすぐに伸びている山道だが、一箇所急にクランクになっている場所がある。
常時は門などは無かったが、緊急時にはこのクランクを利用して仮設門を作り敵の侵入を少し食い止める役割もあったとか。
このクランク部分には「初門」という名前がつけられていた。
藤坂と土岐坂を区切っているのが一の門で、ここからが 岩村城の本城である。
説明板によると、ここは土岐門跡。
その昔、遠山氏が土岐氏との戦いに勝ち、その居城の城門を奪ってここに設置した伝承にちなんで土岐門と呼ばれるという。
古絵図によるとここには薬医門が建っていて、その土岐門本体は移築され町内にある徳祥寺の山門として現存するという。
岩村城跡 唯一の現存城郭建造物とのこと。
かつては大手門へ行くには空堀にかかる畳橋を渡らなければなりませんでしたが、現在は橋がなく空堀りを歩くことができます。
畳橋とは敵が来ると板橋を取り外し、堀にすることからこう呼ばれていました。
大手櫓門跡、城内最大の門で最も重要な門であるから、 その防備は厳重を極めている。
大手櫓門跡から奥を目指す。
左右の石垣の上は古絵図によると屋敷跡とある。
竜神の井… この井戸は、岩村城のうち最大規模で、昭和60年に 創築800年を記念して復元した。
昭和62年に、岐阜県の名水50選に認定されたが、 今も絶えることなく、味は天然のうまさがある。 (岩村町の案内板より)
八幡神社…八幡神社は岩村城創築と同時に譽田別命(ほんだわけのみこと)を 祭神として、城内鎮守の神社とした。
岩村城創築の祖、加藤景廉が 承久3年(1221)に没したので、すぐ配神として祀り、座像を納めた。
城主はかわっても、歴代城主及び家中の崇敬は篤く、社殿の 修理などを記録した棟札は永正5年(1508)のものから現存し、 岐阜県重要文化財に指定されている。
武並神社に祀ってある景廉の長男、遠山景朝が御輿に乗って、 八幡神社の父、景廉に会いに行くという岩村町秋祭り行事は、 岐阜県重要無形民族文化財に指定されている。 (案内板より)
霧ヶ井は、鎌倉時代から清らかな水を湛えている。
この井戸は、城主専用のもので、お堂の中にあった。
岩村城の別名を霧ヶ城というが、それは非常に霧が発生しやすい 地勢にあることから名づけられた。
伝説によると、敵が攻めてきた時、 城内に秘蔵した蛇骨(だこつ)を霧ヶ井に投入すると、忽ちにして雲霧が湧き出して 全山をおおい、敵兵は地形が見えなくなって攻め倦み、そこへ 城兵が突入して勝利を得た。
これは山霊の加護によるもので、 依って霧ヶ城と呼ばれ、天下の名城と伝えられている。
霧ヶ井はどんなに日照りが続いても、決して水の涸れない 不思議な井戸で、江戸時代に100日余り続いた日照りにも、 水は豊富であったと伝えられている。(案内板より)
二之丸手前にある俄(にわか)道口。(現在通行不可)
非常時に城下まで出られる裏口(搦手口)になっていて、麓の大円寺へとも繋がっているらしい。
菱櫓跡の菱形をした石垣も岩村城ならではの遺構。
二の丸東側にせり出している。
地形に合わせた結果このようになり、櫓も上から見ると「く」の字型に建てられていた。
本丸虎口の石垣、六段壁の異名を持つ。
その名の通り、石垣がひな壇のように六段 階段上に積み上げられている。
10m級の高石垣(を積み上げる技術)は既にあり、これは元々あった一番上に見えている石垣(高石垣)の崩落を防ぐために前に小さな抑えの石垣を追加していった結果、6段になったものという。
横から見ると追加の具合が分かるとパンフにある。
六段壁へ近づく。
一番下には巨石が埋め込まれている。
古絵図によると高石垣の下部分は元々岩壁だったようで、それが一部露出しているということとか。
長局埋門跡。
往時はこの上をまたぐように多聞櫓が築かれ、その下をくぐるように本丸へ入る。
本丸へは、突き当たりを左へ進んだところにある虎口(正面)から入る道と、突き当たりを右に進んだところにある本丸埋門(裏口)から入る道とがあるようだ。
本丸跡。
現在は駐車場となっている出丸後。
かなり広いのですが、それでいて帯曲輪以外からの道が無く、周囲を急斜面で防御している難攻の出丸です。
岩村城の本丸にあるのが昇龍の井戸。
山の頂きにありながら、水が枯れることが決して無かったそうです。
本丸跡からの眺望。
本丸へ入る搦手門は埋門となっている。
石垣のなかに一階部分は埋まり、門の上に、これに跨って長い多門があって監視と防衛の役目を果たした。
また敵が攻めて来たとき土や石で門を埋めてしまうことも出来るので、他の門に比べて埋門は堅固であった。
埋門の石垣は野面積み、打込ハギ、切込ハギの三種を一度に見ることが出来る。
これは岩村城の変革を示す貴重な遺構で野面積みが一番古く、切込ハギは享保3年(1718年)にあった大地震のあと修復したものである。
埋門左側の長い石垣は土岐坂の石垣につぐ古いもので、一見粗雑であるが意外と頑丈である。
二の丸櫓門。
二の丸跡から望む本丸の高石垣。
三好学の像
1862年、美濃国岩村藩士の子として、岩村藩江戸藩邸に生まれた。
近代植物学、環境保護の先駆者と言われている。
下田歌子勉学所
明治から昭和にかけて日本の女子教育の先駆者で歌人であった 下田歌子 が勉学に勤しんだとされる勉強部屋(父の書斎)を復元したもの。
歌子の家系は代々学者で藩校知新館の教授を務めていました。
江戸期には女子は藩校で習い事が出来なかった為、歌子は祖母から読み書きの手ほどきを受けました。
その才は驚くことに5歳で俳句・和歌を詠み、8歳で漢書を理解したと言われています。明治から昭和の女子教育の先駆者としての基礎を養ったのがこの勉学所と言える。
『春月』
たまくらは
花のふぶきに うづもれて
うたたねさむし
春の夜の月
宮中に女官として仕えていた歌子は、ある時、春月とお題を賜りこの歌を詠んだ。
この春月は、平安歌人の作品と比べても少しも遜色のない秀歌と讃美を集め、昭憲皇太后から「歌子」を名乗るが良いとのお言葉を頂き、歌子と名乗るようになりました。
平成の大合併で恵那市になる前の、岐阜県恵那郡岩村町時代のマンホールかな?
旧岩村町の“町の木”松 ひめこまつ、“町の花”つつじ やまつつじ、当時の町章、そして、城岩村城がデザインされたマンホール。
女城主伝説
城主遠山景任を亡くし未亡人となっていた修理夫人(女城主)が織田信長の五男御坊丸を養子として、実質的に岩村城を守っていました。
時は天正元年、当時、岩村城は織田と武田の力の均衡する位置にあり、武田信玄の家臣秋山信友率いる武田軍が岩村城を攻撃しました。
しかし、要害硬固な山城である岩村城はそう簡単に落城するはずがありませんでした。
いかにして攻めても落城しない岩村城をどうしたら自軍のものにすることができるのかと秋山は様々な策を練りました。
この間、城は落ちずとも、城下町(この頃の城下町は現在とは異なり、全く異なる場所にありました。現在の富田地区。)は武田軍により大きな被害を受け、このことに女城主は心を痛めていました。
信友は数ある策のなかから、ひとつの策略を密使に託し、岩村城中に送り込みました。
この時、秋山は驚くべき提案を女城主にしたのです。
“信友と結婚して無事に城を明渡し、御坊丸を養子として家督を譲ることとしてはどうか” と。
女城主は、苦渋の決断を下しました。
領民と家臣を守ることを条件に、この最も屈辱的な政略結婚の道を選んだのです。
こうして岩村城は無血開城されました。
しかし、この大きな決断を下した女城主は、ある意味、信友の裏切りにあってしまいます。
信友は信長の叔母と結婚した事を信玄に嫌われるのを悟り、御坊丸を甲府に人質として送ってしまいました。
時に御坊丸は七歳でした。
このことを伝え聞いた信長は激怒しましたが、その頃は武田の勢が強く、かつ近畿攻略に追われていたので、そのまま放任せざるをえませんでした。
しかし、織田信長は、岩村城を秋山信友に奪われたのを無念とし、その周辺の小城に加勢を送り、ひそかに岩村城の奪還の期をうかがっていました。
天正3年3月、長篠の戦に武田勝頼の軍が敗戦したことにより、武田と織田の勢力の均衡が逆転。
信長はこの機を逸せず、同年6月、岩村城を攻略すべく嫡子信忠を大将とする軍勢を岩村城攻略に送り込みました。
信忠の大軍は数日間激しく攻め立てましたが、岩村城兵も命を惜しまず防戦した為、容易に攻略はならず、信忠は戦法を変更し持久戦をとりました。
こうして6月から10月に至るまで数ヶ月の時が経ってしまいました。
さすがに城中も次第に糧が乏しくなり、兵卒も疲れをみせはじめ、武田の応援も無くなり、ついに難攻不落の岩村城は陥落してしまいました。
信長は、秋山信友をはじめ女城主(御坊丸を人質としたことを憎まれていた)らを岩村城外の大将陣(最近の説では岐阜の長良川)で、逆磔(さかさはりつけ)にして殺してしまいました。
この時夫人は、声をあげて泣き悲しみ、 「我れ女の弱さの為にかくなりしも、現在の叔母をかかる非道の処置をなすはかならずや因果の報いを受けん」 と絶叫しつつ果てたといいます。
織田信長が本能寺で殺されるのは、それから七年後のことでした。
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岩村城へのアクセス、行き方歩き方
住所:岐阜県恵那市岩村町字城山
電話:0573-43-3057(岩村歴史資料館)
岩村駅から徒歩20分で岩村歴史資料館、さらに本丸まで徒歩約20分