足利学校は、日本で最も古い学校として知られ、その遺跡は大正10年に国の史跡に指定されている。
平安時代初期、もしくは鎌倉時代に創設されたと伝えられる中世の高等教育機関。
室町時代から戦国時代にかけて、関東における事実上の最高学府であった。
足利学校の創建については、奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説などがある。
歴史が明らかになるのは、室町時代の永享11年(1439)関東管領・上杉憲実(うえすぎのりざね)が、現在国宝に指定されている書籍を寄進し、鎌倉円覚寺から僧・快元(かいげん)を招いて初代の庠主(しょうしゅ=校長)とし、足利学校の経営にあたらせるなどして学校を再興してからです。
美しい堀が素晴らしい。
足利学校は、応仁の乱以後、引き続く戦乱の中、学問の灯を絶やすことなくともし続ける。
学徒三千といわれるほどに隆盛し、天文18年(1549)にはイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルにより「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介された。
入徳門(にゅうとくもん)
足利学校に入る最初の門。
寛文8年(1668)徳川幕府第4代将軍家綱の時の創建。
扁額「入徳」は紀伊徳川家第11代藩主大納言徳川斎順(とくがわなりゆき:1801~1846)の書。
孔子立像
釈迦、キリストとともに世界の三聖人の一人として崇められている。
中国春秋時代の魯国(現在の山東省済寧市曲阜)の人で、儒教の開祖として歴代の皇帝に尊崇され、後に「至聖先師」の称号を贈られた。
学校門
寛文8年(1668)に創建され、現在、足利学校の象徴的な門となっています。
扁額「學校」の文字は明人 蒋 龍淫(しょうりゅうけい)が弘治元年(1555)来日した時の書を、当時の国史館の狛庸(こまやすし)が縮模したもの。
裏門、堀、土塁
一般の人や学生が出入りをしていた往時の通用門。
土塁は、幅6m、高さ2m、総延長約210mで「おかめ笹」に覆われています。
堀は、幅2~7m、深さは平均40cmで土塁の外側をめぐらしています。
衆寮(しゅりょう)
僧房または学生寮です。
衆寮の内部の様子。
庫裡(くり)
庫裡は竃(かまど)のある土間、板敷の台所、畳敷きの四部屋へとつづき、その奥には湯殿などがあり、庠主や学生の日常生活の場として使われていました。
脇玄関にある孔子と四哲の像
屏風は、孔子巡業の図の屏風と呼ばれていて、一曲の屏風ごとに論語の一節が書かれています。
また、裏面には絵が描かれているそうです。
そして、屏風の前におかれている像は、孔子像を中心に、正面左側から孟子・曽子・顔子・子思子の像。
この脇玄関を抜けると、すぐに手足を拡げて寝そべりたくなるような気持ちの良い大きな広間があります。
ここが、方丈(昔の教室)の中になります。
ここを訪れる方はみな縁側に出て、南庭園を眺めながらしばらくのんびりしています。
南庭園
書院庭園の形態を持つ築山泉水(つきやませんすい)庭園で、巨石と老松が特色。
北庭園
築山泉水庭園で奥の庭として南庭園より格が高く、亀の形をした中之島を配し、そこには弁天を祀る石の祠(ほこら)があります。
上杉憲実(うえすぎのりざね)の像。
関東管領を務め、足利学校や金沢文庫を再興した事で名高い人物。
憲実は儒学に志篤く、永享4年以降には足利学校の再興に寄与し、鎌倉円覚寺の僧快元を庠主(=校長)に招いたり、五経など書籍98冊を寄進するなど文化事業に大きな功績を残している。
儒学に志篤いが故に、主君である持氏を結果的にしろ裏切ったことを激しく後悔し、永享の乱後に自害を試みたとされ、実際に京都では「憲実自害」の風説が伝わったと記録されている(『永享記』および『師郷記』永享11年7月4日条)。
その後も幕府による再三の復帰要請の拒否、諸国遍歴など、厭世的行動を見せている。
大寧寺で死去した際、当代屈指の画僧宗湛に「人皆その風を望み、敬せざる無し、忽ち逝去を聞き、感すべき慕うべきなり」(『蔭涼軒日録』)と評されており、彼の人望が厚かったことが現れている。
木小屋
薪や農具などの置き場のほか、漬物などの食料品を保管した建物。
土蔵(どぞう)
大切なものを格納する耐火建築として建てられた。
周囲は漆喰仕上げで屋根は栗板の柿葺き。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の結果、後北条氏と足利長尾氏が滅び、足利学校は庇護者を失うことになった。
学校の財源であった所領が奪われ、古典籍を愛した豊臣秀次によって蔵書の一部が京都に持ち出されそうになったが、当時の第9代庠主三要は関東の新領主である徳川家康に近侍して信任を受け、家康の保護を得て足利学校を守り通した。
庠主の墓(しょうしゅのはか)
室町時代、関東管領上杉憲実は、鎌倉円覚寺から僧快元を招いて初代の庠主(校長)とし、足利学校の経営にあたらせた。
以後、明治元年までの430年間に23代の庠主が在任しました。
孔子廟の裏手には、このうち17人の歴代庠主の墓があります。
多くは無縫塔で、庠主の名前がわかるのは8基あり文字が判読されていますが、残りの9基は不明です。
孔子廟
聖廟とも呼ばれ孔子を祀ってある廟。
建物の名称は「大成殿」で寛文8年(1668)足利学校第13世庠主伝英元教の時に造営されたものです。
「入徳門」「學校門」「杏壇門」「孔子廟」は国の史跡指定に含まれています。
扁額「大成殿」は有栖川宮織仁親王(ありすがわのみやおりひとしんのう)の王子で、のちに京都知恩院門跡となった尊超法親王(そんちょうほっしんのう:1802~1852)の書。
遺蹟図書館
足利学校伝来の書籍の保存を目的として明治36年(1903)3月に足利学校遺蹟図書館が発足し、大正4年(1915)に現在の建物が完成し開館。
字降松(かなふりまつ)
第7世庠主九華和尚(1550~1577在任)のころ読めない字や意味の解らない言葉などを紙に書いてこの松の枝に結んでおくと、翌日にはふり仮名や注釈がついていたことから、「かなふり松」と呼ばれるようになったと伝えられています。
現在は、質問箱になっているようです。
読めない字や意味のわからない言葉を紙に書いて、ここに入れるのかな?
5年の工期をかけて復元された東京駅丸の内駅舎。
帰途、新幹線の待ち時間の撮影。
時間がなく内部の様子までは撮影できず、次回の楽しみにとっておこう。
足利学校へのアクセス、行き方歩き方
住所:〒326-0813 栃木県足利市昌平町2338番地
Tel:0284-41-2655
Fax:0284-41-2082
JR両毛線「足利駅」より徒歩10分
東武伊勢崎線「足利市駅」より徒歩15分