日本一の苔を見に 平泉寺白山神社にやってきました

北陸

白山の登拝口に建てられた平泉寺は、古代から中世後期にかけて白山信仰の拠点寺院として大きな宗教勢力を誇った。
最盛期には48社、36堂、6千の坊院が寺内に存在したと伝えられている。

最盛時の平泉寺の寺領は9万石に達したという。
戦国の雄・越前朝倉氏と勢力を二分する巨大寺院組織だった。

白山は富士山、立山とともに日本の三名山の一つです。

この参道の広さからも、当時の平泉寺の大きさが分かります。

その大寺院が、天正2年(1574)の一向一揆との戦いに敗れ、全山が焼失してしまった。

秀吉の時代や江戸時代に、主な堂宇が再興された。
復興した平泉寺には6つの坊と2つの寺があり、福井藩や勝山藩から寄進を受けて400石を領していた。

しかし、室町時代の最も栄えた頃までは力を盛り返すことができなかった。
6千坊と称された坊院はほとんど再興されることはなく、いつしか山林や田畑の下に埋もれてしまった。

一の鳥居を抜けても、さらに続く参道。

明治になると神仏分離令が出され、平泉寺が廃され白山神社となった。

現在は、伊弉冉尊(いざなみのみこと)を主祭神として祀る神社で、平泉寺白山神社を正式名称としている。

神仏習合の名残を留めている珍しい社名である。
境内一面に生い茂った苔(こけ)が見事。

御手洗池(みたらしいけ)

越前番場(えちぜんばんば)の平泉寺(へいせんじ)が開かれたのは、養老元年(ようろうがんねん)(717年)のこととされています。

白山登拝(とうはい)を目指した泰澄大師(たいちょうだいし)が母の生誕地である勝山市南部の伊野原(いのはら)を訪れました。

そこで夢のなかでお告(おつげ)を聞いて、東の林の泉に行くと、そこで白山の女神を見たことが平泉寺のはじまりと伝えられています。

この池は、現在、平泉寺白山神社境内の中心部から湧き出る御手洗池(みたらしいけ)と考えられおり、「平泉寺」という地名もここから付けられたとされています。

平泉寺白山神社は泰澄大使が白山に登ろうとして此地にまいられ、一林泉を発見し、ここが神明の地であることを知り、ここに神社を建てられた。

御手洗池の東には神木である三叉杉がそびえたっています。
泰澄大師が植えたものとされています。

幹は途中から3本に分かれ白山三社をかたどる形になっているそうです。

八幡神社。

日本の本格的な石垣は安土城が最初とされているが、平泉寺の方が古く、中世の姿そのままの石畳道が当時の栄華をしのばせている。

『平家物語』には、平家と木曾義仲方との燧ケ城の戦いで、平泉寺の長吏斎明が木曾義仲を裏切り平家側についたことが書かれている。

斎明はその後の倶利伽羅峠の戦いで捕らえられ処刑されているが、一方で義仲はその戦いの後に藤島七郷を平泉寺に寄進している。

拝殿前の日本最古の鳥居 『素木両部鳥居』笠木の上に屋根がついた鳥居であり、神仏習合の名残です。

笠木に扁額が掲げてあり 『白山三所大権現』 と書いてあり上部に屋根がついている、趣のある鳥居です。

山王鳥居ですね。

比叡山の延暦寺と日吉神社を一体とした山王信仰に基づく様式です。
神仏習合の典型例です。

平泉寺白山神社は、名前の通り明治時代まではお寺でした。
そして延暦寺の支配下でしたので、山王鳥居があって不思議ではありません。

正面は拝殿、苔むした境内に残る礎石はかつての拝殿のもので、間口三十三間という大きさを物語る。

源義経ゆかりの平泉寺白山神社の拝殿は、天正2年(1574)兵火にかかって焼失するまで、正面45間というわが国最大の規模だったという。

左右に残る巨大な礎石が規模の雄大さを物語っています。

拝殿前に広がる苔、このような見事な苔はここでしか見ることができません。

白洲正子はその著書かくれ里の中で述べる。

よほど大きな寺だったらしく、方々に礎石や石垣が残っており、杉の林は全山苔でおおわれている。
それも排気ガスと観光客で痛めつけられた京都の寺院とは違って、季節としては決していいとは言えないのに、ビロードを敷きつめたようにふっくらと盛り上がり、木漏れ日に光る景色は実に美しい。

司馬遼太郎が「京都の寺より美しい」と評した杉木立の神社境内、発掘石畳と屋敷跡の石垣、昔の僧坊の面影を残す集落町並みなどを見ながら歩く。
美しい自然と悠久の歴史に触れる全国屈指の散策路だ。

「美しい日本の歴史的風土100選」(平成19年)、「かおり風景100選」(平成13年)に選定され、参道が「日本の道百選」(昭和61年(1986年))に、平泉寺から白山までの白山禅定道が「歴史の道百選」(平成8年)に選定されている。

拝殿右側・苔が最も美しく見える方向のひとつ。

巨木の切り株の苔も年輪を感じさせます。
こんな素晴らしい苔が無料で見られるのです。

切り株から芽吹く芽を発見。
このような環境は地元の人たちの温かいボランティア活動に支えられています。

平泉寺白山神社の御本社(本殿)。
寛政7年(1795)福井藩主松平重富によって再建されたものです。

総欅の入母屋造で正面に千鳥破風をつけています。
そして前のひさし部分の向拝を唐破風としています。

飼葉料、夜中に絵馬から抜け出した駿馬が田畑の作物を食い荒らしたため此処を馬の飼葉料としたとの伝説にちなみ今でも草を刈り残したままにしています。

芭蕉句碑

「うらやまし 
  浮き世の 北の 山桜」

白山神社はそこかしこに巨木があり、ひんやりとした空気が心地よい。
参道わきもふかふかの絨毯のような苔で覆われている。
京都の苔寺 『西芳寺』 よりも美しいともいう。

三国にある、柱状節理の断崖絶壁「東尋坊」の名前の由来は勝山・平泉寺にあります。
この発掘現場が、東尋坊が住んでいた辺りとされています。
東尋坊・・・坊さんの名前です。

延暦寺が三千坊といわれた時代、六千坊とうたわれた白山麓の巨大都市。
「いまだ発掘はその1%ほど」というケタ外れの中世宗教都市。

発掘調査で現在あった石垣より1m程奥に約500年前の土塀の基礎となる石垣や石畳道と約300年以上前の石垣が発見されました。

発見された遺物は約800年前(鎌倉時代)から約300年前(江戸時代)が中心になります。

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平泉寺白山神社へのアクセス、行き方歩き方

福井県勝山市平泉寺町平泉寺56-63

TEL:0779-88-1591

えちぜん鉄道勝山駅→コミュニティバス片瀬・平泉寺荘方面行きで10分、バス停:平泉寺荘前下車、徒歩20分
北陸道福井北ICから40分