南北朝、戦国期を通じ常に天下取りへの転換点となった金ヶ崎城址への訪問記。
金ヶ崎城跡のふもとには、足利氏と新田義貞の戦いで城の陥落とともに捕縛された恒良親王と、新田義顕とともに自害した尊良親王を祀った金崎宮(かねがさきぐう)がある。
城の縄張りは神社境内に設置されたジオラマ(地元の高校作)が参考になる、しっかり頭に叩き込んでから登城しよう。
別名敦賀城(つるがじょう)。
敦賀市北東部、敦賀湾に突き出した海抜86メートルの小高い丘(金ヶ崎山)に築かれた山城。
治承・寿永の乱(源平合戦)の時、平通盛が木曾義仲との戦いのためにここに城を築いたのが最初と伝えられる。
現在でも月見御殿(本丸)跡、木戸跡、曲輪、堀切などが残り、1934年には国の史跡に指定されている。
戦国時代、永禄九年(1566)九月、幕府再興を目指す足利義昭は一乗谷の朝倉義景に保護を求める為に一旦この城に入っている。
明治30年、金ヶ崎城ゆかりの南朝方武将を祀って、金ヶ崎宮摂社絹掛神社として創建された。
祭神は、南朝方武将の藤原行房、新田義顕、気比氏治、気比斎晴、瓜生保、瓜生義鑑、里見時成、里見義氏、由良具滋、長浜顕寛、武田與一、以下殉難将士。
金ヶ崎城跡にある南北朝時代の金ヶ崎の戦いの古戦場碑。
月見御殿は、金ヶ崎の最高地(海抜86m)で月見崎といい、通称月見御殿と呼ばれている。
南北朝時代の金ヶ崎城の本丸跡で、戦国時代などにも武将が月見をしたと伝えられている。
元亀元年(1570)4月。
朝倉義景討伐を企てた織田信長が越前に攻め入ろうとした時、近江浅井氏裏切りの報が…。
窮地に陥った信長、金ヶ崎城で殿(しんがり)を努めた豊臣秀吉の活躍で、無事帰京できたといわれています。
その後の姉川の合戦で、浅井・朝倉連合軍を敗った信長。
そして、その信を受け天下取りの道を進んだ秀吉。
さらに、秀吉の殿を助け、後に謝意を受けた徳川家康……。
金ヶ崎城をめぐる出来事は、それぞれの武将にとって天下取りへの転換点となっているのです。
三の城戸の堀切。
焼米石出土地、付近から清水がわき出ていたことから「水の手」と呼ばれた平坦地がある。
この土中から炭化した米が発見されたという。
戦国時代、浅倉勢の兵糧庫があり、織田信長との戦いで焼け落ちた際のものと伝えられる。
激戦となった二の木戸跡、1336年(延元元年/建武3年10月13日、足利尊氏の入京により恒良親王、尊良親王を奉じて北陸落ちした新田義貞が入城、直後、足利方の越前守護斯波高経らの軍勢に包囲され兵糧攻めにされる。
翌1337年(延元2年/建武4年2月5日)、義貞らは、闇夜に密かに脱出し、杣山城(福井県南条郡南越前町)で体勢を立て直す。
2月16日、義貞は金ヶ崎城を救援しようとするも敦賀郡樫曲付近で足利方に阻まれる。
3月3日、足利方が城内に攻め込み、兵糧攻めによる飢餓と疲労で城兵は次々と討ち取られる。
尊良親王、新田義顕(義貞嫡男)、城兵300名は城に火を放ち自害、恒良親王は捕縛され、3月6日、落城する。
金前寺 古井戸、かつて金前寺境内のすぐそばまで砂浜であり、泉浜と呼ばれていた。
享保11年(1726)頃の泉浜はたいそう賑わっていたという。
この井戸は泉浜に入港する北前船をはじめ日本海沿岸を廻航する船の給水用として大事な役割を果たしていた。
今日の昼食は江戸時代から続く敦賀の豪商であり敦賀駅の駅弁調製業者として有名な「しおそう」
店内に展示されていたたこつぼ、年代を感じさせる立派なものです。
以前の訪問記「南北朝、戦国争乱の城と恋物語 金ヶ崎城址」も併せお読みいただければと思います。
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金ヶ崎城址へのアクセス、行き方歩き方
住所:敦賀市金ヶ崎町1-1
問い合わせ:金崎宮社務所(0770-22-0938)
JR小浜線 「敦賀駅」下車 徒歩29分
「港町バス停」下車 徒歩9分
「セメント前バス停」下車 徒歩10分
「北小学校前バス停」下車 徒歩13分