淀は「与渡津」(淀の港の意)と呼ばれ、古代には諸国からの貢納物や西日本から都に運ばれる海産物や塩の陸揚げを集積する商業地であった。
また、河内国・摂津国方面や大和国方面から山城国・京洛に入る要衝であった。
寛永10年(1633年)松平定綱が大垣城に移った後、諸大名が次々と城主になったが、享保8年(1723)、春日局の子孫である稲葉正知が佐倉城から入城し、その後、明治維新まで稲葉氏10万2千石の居城となった。
西側から見た淀城址、向こうは京阪電車。
安土桃山時代、豊臣秀吉が、側室茶々の産所として築かせた淀城は現在の位置より北へ約500メートルの位置にあった。
こちらは、鶴松死後に拾丸誕生後養子となっていた豊臣秀次が謀反の疑いを掛けられた際、城主であった木村重茲の連座とともに廃城とされた。
淀城址碑。
本丸北西隅には櫓台が遺っている。
現在櫓台の上には「明治天皇御駐蹕之址」という石碑が立っている。
慶応4年の大坂行幸の際に立ち寄ったという。
現在、本丸石垣や天守台はほぼ完存しています。
淀城天守台は、伏見城関ヶ原復興の天守を移そうとしてして築かれたものですが、伏見城天守は二条城に、二条城創築天守が淀城に移された。
天守台は「埋蔵文化財包蔵地」として立ち入り禁止となっている。
天守台跡の側にある井戸跡、小さな穴から小石を落とすと少しタイムラグがあり、ポチャリと音がする。
そこそこの深さがあるのだろう。
石垣は刻印石が多くみられる。
天守台で写真を撮っていると近所のおじさんが寄ってきて、木の幹の傷は鉄砲の跡だと教えてくれたが、ホントかな。
道標「淀城之故址」「淀小橋旧跡 従西南大坂至」
「唐人雁木旧跡」、本来の唐人雁木(とうじんがんぎ)旧跡は、伏見区納所(のうそ)にある。
雁木は船着場の桟橋に作られた階段のことで、淀川を遡ってきた朝鮮通信使がこの地より上陸し、後は陸路で京都へと向かった。
淀藩の消滅に伴い、早くから淀城は廃城となる。
淀城東部にあった巨椋池の干拓によって地形が大きくかわり、本丸の一部を除いてすべて破壊された。
さらに、本丸北西部を京阪電気鉄道が貫通するに及び、淀城の消滅は必至となるが、このころになってようやく保存運動が高まり、今日は本丸周辺の整備が進み、開発の手を免れた石垣及び堀が保存されている。
慶応4年(1686)の鳥羽伏見の戦いでは敗走する幕府軍に門を閉じ、官軍の勝利に一役買う形となった。
稲葉家が淀藩主になったのは、初代正成より数えて5代目の正知の時で、享保8年(1723)下総佐倉(千葉)より、10万2千石で入封した。その後明治4年(1871)16代正邦の時に廃藩を迎えるまで、稲葉家12代、148年間に渡り城主を務めた。
淀藩主として12代、約150年も続いた稲葉家の祖・稲葉正成を祭神とする稲葉神社。
祭神、稲葉正成公(1571~1628)は、淀藩稲葉家の祖。
元亀2年(1571)に美濃国(岐阜県)本巣郡の城主、林家に生まれ、長じて稲葉重通の娘婿となり、以後、稲葉を称した。
ところが妻の死去により、代わりの妻を迎えることになった。
そして迎えられたのが、明智光秀の重臣、斉藤利三の娘「ふく」(後の春日局)である。
ふくは稲葉重通の養女、稲葉正成の妻となった。
淀城跡公園内にある與杼(よど)神社は、与杼神社とも記される。
また、淀姫(よどひめ)社、旧社地に因み水垂(みずたれ)社、大荒木(おおあらき)神社ともいわれた。
江戸時代、大坂淀屋寄進の高灯籠、淀屋ゆかりの片岡正英・政冬が、1759年に灯籠を寄進したものという。
江戸時代初期、大坂淀屋の初代・岡本与三郎(淀屋常安)は、淀の岡本荘に生まれたとも、淀に家、田地も所有していたともいう。
一時は、幕府を凌ぐほどの財をなした。
だが、1705年、闕所(けっしょ)となり、財産没収、所払いとなった。
闕所とは、死刑と追放刑に処せられた者を対象とし、その付加刑として連帯責任を負わされ、財産、屋敷、家財などを公収された。
淀屋はその後、1763年、元の店舖があった淀屋橋南詰一帯に、木綿問屋「淀屋清兵衛」の再興を果たしている。
三代将軍家光の実母は「ふく」であったとする説。
諸説ある中の面白い説を紹介しよう。
稲葉正成の妻「ふく」といっても知らない人はいるだろうが、「春日局」といえばほぼ知られているだろう。
とはいっても、彼女がいかに数奇な生い立ちと前身を生きたか知る人は少ないかも知れない。
ふくの父、斎藤利三の母は明智光秀の妹で、光秀と利三は伯父・甥の間柄だ。
また、母は「あん」は美濃曽根城主・稲葉一鉄の姪である。
父利三が明智光秀の重臣として「本能寺の変」に参画して戦い、「山崎の戦」で敗死したことから、ふくの厳しい人生が始まる。
時に四歳。
母とともに一時、四国に流れ、美濃出身の稲葉正成と結婚。
二児を生むが、その後正成は零落。
その正成を見限って京へ出る・・・・
ふくが子連れで京へやってきたのは、働き口を見つけることだった。
そのためには駄目でもともと、京都の所司代に訴えてみようという、とんてせもないことを思いついた。
そこで三条西家へ子供を預け、西家の紹介状を得て、所司代の門をくぐった。
・・・中略
家康の心を動かしたのは、ふくが明智光秀の血脈だということだ。
「そうか、ふくと申されるか、明日夕刻、もう一度ここへこられよ」
翌日、指定された刻限に、ふくは昨日と同じ部屋の控えの間に座った。
暫時待たされると、音もなく戸が開いた。
するとそこには褥(しとね)が述べられていた。
眩暈がし、体が震えた。
・・・中略
そして、月満ち、男子が生まれた。
慶長9年(1604)七月十七日のことだある。
江戸の家康からただちに幼名が送られてきた。
なんと「竹千代」である。
竹千代と言えば、徳川世嗣の幼名ではないか・・・・
ところが、その後やってきた使者の文言に、ふくは背筋が寒くなるのを覚えた。
竹千代とともに江戸城大奥に入るにあたり、役職は「乳母」たることというものだ。
そうして江戸城大奥に来てみると、女たちの厳しい監視の目に曝された。
次に、お江与(秀忠夫人)を激怒させたのは、竹千代という幼名である。
いまだお江与に男子が生まれていないにしても、も、いきなり家康の12男に「竹千代」はないだろう。
・・・中略
ところで、ふくを揺さぶる事態が起こった。
お江与御台所にとうとう男子が生まれた。
そうなると、こちらは二歳上で竹千代を名乗っていても諸兄である。
諸兄では将軍の道は絶たれたといってもよい。
慶長九年(1604)といえば、ふくが竹千代を生んだ年である。
秀忠は江戸城西の丸の家康の自室に呼ばれた。
いつもなら侍臣が付いているのに、今夜は父子だけである。
しばし沈黙が続いて、いきなり家康が、
「頼みがある」と言った。
「なにか?}
秀忠は緊張した。
父からこんな言われ方をしたのは初めてだ。
「余に12番目の男子ができたことは知っておろう。その竹千代を、そちの長子として欲しいのじゃ」
たしかにこの時点では、妻のお江与にまだ男子は生まれていなかった。
秀忠の結婚は、当時秀吉から押し付けられた。
お江与にとっては三婚目(初婚は尾張の佐治与九郎、再婚は豊臣秀勝)である。
それにお江与の伯父は織田信長。
それは、家康にとって許せぬ怨敵なのだ。
すなわち、妻(築山御前)、長男(信康)を死に至らしめた男だからだ。
当時は力関係で、それに抗うことができなかった。
しかし、遺恨は今も残っている。
すなわち、いかなることがあっても、徳川の系脈に、信長の血を入れることは、初代・家康としては許さぬということだ。
「したが、なにゆえふくの子を・・・・ほかに男子は11人もおりますものを」
「余がどうしてあんな醜女(しこめ)にその気になったか・・・・あれが光秀の甥の娘だと知ったからじゃ。
子まで考えたわけではないが、そうと知ったからは、明智の血を入れたいと思うてな。光秀殿とはともに信長を討つ黙契があった。
それを余は、ついに光秀殿を見殺しにしてしまった。
その光秀殿に報いるは、ふくの子を徳川の系譜に入れることじゃ。」
「その代りすぐにも将軍職をそなたに譲ろう」
「呑んでくれ、親の言葉じゃ。それに余は、大坂潰しをやらねばならぬ。その大仕事が残っている」
翌年慶長10年(1605)、家康の約束通り、秀忠は晴れて二代将軍に就任した。
元和6年(1620)9月6日、江戸城本丸表御殿で二つの元服式がとり行われた。
竹千代の名乗りについては秀忠が金地院崇伝にもちかけて、「家忠」が用意されていた。「家」は家康の一字であり、「忠」は秀忠の一字である。
ところが、ここで当の竹千代が異を唱えた。
名乗りはすでに家康からもらっているというのだ。
「それでなんと?}
「はい『家光』にござりまする」
秀忠と崇伝は顔を見合った。
「家」はわかるが「光」はもしかしたら「光秀」の一字ではなかろうか・・・・・
お江与御台所、すなわち織田信長の血を排斥する家康の怨念。
そして、明智光秀への贖罪を、ここに映したとすぐにわかった。
それから3年後の元和9年(1623)7月、秀忠は将軍職を家光に譲ることにした。
家康から受け継いで18年目であった。
寛永3年(1626)、つまり三年後、お江与御台所が逝去した。
ここにふくの大抜擢が実現した。
すなわち、「大奥総取締役」の役職である。
ふくの実母説の根拠になっている文書は、「紅葉山文庫」、「稲葉系図御家系典」にもみえる。
すなわち、ふくが家康の子を産んだが、崇源院(お江与)の子として、ふくを乳母としたという内容である。
こうした記録があるからと言って、全幅の信頼を持つものではない。
こいうものは、最後に生き残った者が都合よく書き残すものだから。
戦国の「いい妻」「ダメな妻」中島道子著より
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