因幡国庁跡(いなばこくちょうあと)は、鳥取県鳥取市国府町中郷に所在する、律令制下の地方行政機関の中心施設跡。
1977年(昭和52年)の発掘調査では、国庁の中心部にごく近いと推定される建物群の一画が発見されて、翌1978年(昭和53年)には史跡に指定されている。
発掘調査で10軒余の掘立柱建物、2条の柵、2基の井戸、数本の道路と溝などが検出された。
因幡国庁は、大伴家持が国守として着任したことでも知られる。
758年、家持は因幡守に就任する。
絶頂にあった仲麻呂政権が旧勢力を嫌っての左遷だったとされている。
〈新しき年の初めの 初春の今日降る雪の いや重け吉事〉
(巻二十・四五一六)
『万葉集』は家持のこの歌をもって終わる。
因幡国に着任したその挨拶として詠んだ歌とされ、万葉全歌をしめくくる歌であるとともに、以降に家持の歌はない。
そして、764年、家持は因幡守から薩摩守へ、重ねての転任というかたちで再び左遷させられている。
慎重に行動するよう戒めた「族に諭す歌」から約7年後にして家持が、今度は自らが戒められる側に回ったからである。
仲麻呂暗殺計画に参画したのだ。
暗殺計画の首謀者は藤原良継ら、仲麻呂の身内である。
良継の兄は広嗣で、橘諸兄政権のとき、吉備真備と僧・玄防の排斥を聖武天皇に奏上し、沈下していた藤原氏の復権をにらんだ人物である。
聞き入れられずに赴任先の大宰府で乱を起こし、このときの連座で良継は伊豆へ流罪となった経験を持つ。
流罪を解かれた後、良継は地方官を経て在京官僚に復帰するが、芽が出ないでいた。
仲麻呂の息子たちは参議にのばっで将来の少中大納言、あわよくば大臣職までを約束されるが、良継は50歳近くとなっでも従五位上。
ぎりぎり貴族と呼ばれるばかりの立場である。
これが伝統体制勢力である佐伯今毛人、石上宅嗣、そして家持を誘った。
これはいわば藤原氏の内輪もめで、計画はすぐに仲麻呂側に漏洩してしまい、良継、今毛人、宅嗣、家持は逮捕された。
時に家持は40代半ば、脂は乗りきっでいるが位階は従五位上である。
左遷による地方生活が長いことに、中央へのかなりの反発心が為っだことが想像されるが、心情を図れる歌は残っていない。
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