両端部の2階式螺旋状坂路(720度ループ)を含めて道路長は1228mあり、橋の形状をメガネに見立てることから、地元ではめがね橋の愛称で呼ばれる。
「千本松大橋」の名称は、江戸時代にこの地の木津川堤防に沿って多くの松が植えられていたことに由来している。
車道と歩道があり、自動車・歩行者ともに通行可能。橋を通るバスも存在する。
木津川の両岸には工業地帯や造船所が広がり、大型船が頻繁に航行していた。
そのため、船の運航に考慮して、通常の橋が架橋できなかった。
かつて自動車は上流の橋まで大きく迂回しなければならず、特に大正区南部の住民には交通面での不便を生じさせていた。
交通の便を改善する目的で、桁下の高さを高くとったループ橋・千本松大橋が建設された。
流石に見晴らしはよくプラントの向こうに空中庭園やフェスティバルホールまで見渡せる。
しかし、橋が完成した同年、第一次オイルショックやそれに伴う著しい景気の悪化などの影響により、両岸にあった大型船を建造する造船所は一気に衰退し、またその他の工場でも規模を縮小したために、皮肉にも、橋の完成と同時に航路高が33mも必要とする大型船の航行はなくなってしまっていた。
千本松大橋の両岸である大正区南恩加島・西成区南津守の一帯は、江戸時代に開かれた新田だ。津守新田は元禄13年(1800年)、京都の商人・横井源左衛門と金屋源兵衛が、恩加島新田は文政12年(1829年)に開拓者・岡島嘉平次が拓いたものである。
木津川の左岸には、建築土木資材を製造する「太平洋マテリアル」の工場が眼下に見えます。
明治後期になると、田園地帯だった木津川下流域に開発の手が入る。工業が盛んになり、造船所などの工場が増えていった。
それに伴って人の往来も増え、川を渡る手段が必要になってくると、渡し舟が運行されるようになった。
千本松渡がいつごろ設けられたものかは定かでないが、大正時代の中ごろにはすでにあったようである。
対岸に千本松の渡しが見える。
この地には従来から、木津川を渡る渡船場・千本松渡船場があり、大正区~西成区相互での歩行者や自転車の移動に利用されてきた。
渡船を管理・運営する大阪市は、千本松大橋の開設に伴い、当初は千本松渡船場を廃止する計画だった。
しかし「橋ができても、高さ36m(ビル12階の高さに相当する)、総延長1.2kmの橋の渡橋には、歩行者や自転車にとっては所要時間・体力面ともに大変になる」などとして、渡船場の存続を求める住民の声が高まった。
住民の声を反映して大阪市は当初の渡船場廃止計画を撤回、千本松渡船場は現在に至るまで存続されている。
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