伊吹山は、滋賀県米原市、岐阜県揖斐郡揖斐川町、不破郡関ケ原町にまたがる伊吹山地の主峰(最高峰)標高1,377 mの山である。
花の名山として知られている伊吹山が、今、大変な危機に襲われている。
伊吹山は、毎年夏から初秋にかけて、山頂付近がシモツケのピンク色、サラシナショウマの白色、コイブキアザミの紅紫色など様々な色に染まるはずである。
しかし最近の伊吹山では、全くそれらのすばらしい光景が見られなくなってしまい、ただ緑色のササや低木、ザラザラした葉っぱの植物だけの緑と茶色と白い石の世界になってしまった。
このような事態に陥ってしまったのには、もちろん訳がある。
その理由はただひとつ、野生のニホンジカによる食害である。
ニホンジカによる食害は、無慈悲で凄まじく、圧倒的である。
数年前までの伊吹山の写真と、現在の写真を比べると、いかに変化しているかがわかるだろう。
8年前の訪問時の写真と見比べてみてほしい。雲上の楽園「伊吹山」
滋賀県と岐阜県の県境にある伊吹山地主峰の標高1,377mの山。 滋賀県最高峰の山 … 続きを読む →
山上駐車場から来た道を振り返る。
ここで昼食、ロザンベリー多和田特性の弁当ハマベンだ。
1689年(元禄2年)秋に松尾芭蕉により「そのままよ 月もたのまし 伊吹山」の俳句が詠まれている。
元禄2年(1689年)、奥の細道紀行を終えて結びの地・大垣に入った松尾芭蕉が、2週間の逗留中に読んだ句です。
(秀峰・伊吹山は、月で風情を付け加えなくても、充分にすばらしい存在だよ。)といった意味でしょうか。
この場所に来て詠んだものではないにしても、芭蕉翁は大垣から伊吹山の姿を眺めただけで賛辞を述べたのです。
章末に芭蕉の行動記の一部を記す。
西側の山肌に沿うように造られた西登山道の入り口、足元に小石が敷かれ歩きやすく整備されているので、山からの景色や高山植物を見ながら登るにはベストの道です。
『日本書紀』では「五十葺山」と記され、『古事記』では「伊服阜能山」と記述される。
また、「膽吹山」のほか、「伊服阜山」、「伊夫阜山」とも記される。
かつて修験道においては「大乗峰」と呼ばれていた。
他に、伊福貴、異吹、伊布貴、伊夫伎などの表記が為された。
冒頭にも記したが伊吹山は今大変な危機にあっている、宝物を探すように高山植物を探しながら頂上を目指す。
古くから神が宿る山として信仰の対象であった。
室町時代後期には織田信長により、山上に野草園が造られたとされている。
明治以降に近代登山の対象となった。
大正には中山再次郎により、関西におけるスキーの山として注目されるようになった。
1964年(昭和39年)に深田久弥により日本百名山に選定されると、百名山ブームもあり全国的に登山対象の山として知名度も高まった。
1965年(昭和40年)に伊吹山ドライブウェイが開通すると、9合目まで容易に上がれるようになり山頂部は観光地化した。
伊吹山の神は「伊吹大明神」とも呼ばれ、『古事記』では「牛のような大きな白猪」、『日本書紀』では「大蛇」とされていた。
『古事記』にはヤマトタケルがこの伊吹大明神と戦って敗れる物語がある。
伊吹山の神に苦しめられて敗れたヤマトタケルは病に冒されて山を下り、居醒の泉(米原市醒井の平成の名水百選の1つに選定されている「居醒の清水」)で少し回復したものの、のちに悪化して亡くなったとする伝説が伝えられている。
山頂部にはその日本武尊の石像と、伊吹山の神の白猪の像が設置されている。
表登山道の三合目西側の「高屋」と呼ばれる場所はヤマトタケルが山の神に出会った場所とされていて、大正時代に石の祠が建立されその中に木造の日本武尊が祀られた。
673年 – 天武天皇により麓に三関のひとつである不破関が置かれる。
日本武尊の石像がある山頂に到着。
ヤマトタケルの西征 建部大社
瀬田の唐橋の東約500m。 この社は、近江一の宮といわれ、長い歴史と由緒を持つ全 … 続きを読む →
梅雨期の醒ヶ井宿
醒井宿は、近江国坂田郡にあった中山道(中山道六十九次)61番目の宿場であり、現在 … 続きを読む →
『古事記』『日本書紀』に、ヤマトタケルノミコトが東国征伐の帰りに、伊吹山の神が白い猪の姿であらわれた。
伊吹山には、様々な神道・仏教・修験道的施設があるが、その中でも中心的な施設が弥勒堂。
小さな石の祠には弥勒菩薩が安置され、ここが伊吹山登拝の目的地となってきた。
かつては石仏や石塔などが多く奉られ、麓の上野地区の人々は雨乞いの儀式として「千束焚」、「雷踊り」を行ってきたと、現地の説明版にはある。
また弥勒堂はもう一つあり、南弥勒堂と言う。
こちらは比較的新しく、明治45年に作られ、麓関ヶ原の石清によって製作された弥勒仏が安置されている。
その時、同時に設置されたのがトップ画像の山頂広間に置かれたヤマトタケルの石像だ。
一等三角点が置かれている山頂部は滋賀県米原市に属し、滋賀県最高峰の山であり、山域は琵琶湖国定公園に指定されている。
イヌワシで有名な伊吹山は、ドライブウエィーを殆ど登り切ったところにイヌワシの撮影スポットがあるため、伊吹山の麓まで着いても30分くらい掛かりますが、結構カーブが厳しい観光道路となっており、約1500mの頂上に展望台やレストランがあり一般の観光客が登ってきます、聞いた話では伊吹山に来る全体の20%くらいがイヌワシハンター(イヌワシ好きのバーダー)のようです。
イヌワシハンター達は、カードレールの外側に入り断崖絶壁の足場の悪いところスレスレに三脚を立てて切り立っている崖の下を飛ぶイヌワシを上から撮るという理想的な撮影が出来るが、足が竦んでしまい尻込みを感じ崖の下が見えるところまではなかなか行けない(崖から1m位離れる)が、崖スレスレに飛ぶことがあるそうで飛んでも何も見えないことがあると地元の人達が教えてくれた。
日本七高山霊場の一つに選ばれる伊吹山寺覚心堂。
山頂でゆっくりした後、中央登山で約20分で駐車場に到着できる最短コース。
山肌を正面にして登るので、やや急こう配の階段が頂上付近まで続きます。
先に頂上へ到着してからゆっくり景色を楽しみたい場合は、中央登山道からのスタートもおすすめ。
伊吹山は約3億年前に噴火した海底火山であったとされており、ウミユリやフズリナの化石が発見されたことから、地層には約2億5千年前の古生代に海底に堆積した層が含まれていると考えられている。
その時期にサンゴ礁が形成されたことで石灰質の地層が堆積した。中腹より上部は、古生代二畳紀に形成された石灰岩が広く分布している。
山頂部では、カレンフェルトや巨大な石灰露岩などのカルスト地形が見られる。
化石が多く含まれ、フズリナやウミユリの化石がよく見られる。
石灰岩には塊状の亀裂が多く、水透しが良く表土は乾燥し易い。
現在は良質の石灰岩が採掘される山として知られている。
伊吹山の石灰岩は、古くは漆塗りの原材料に用いる消石灰として1661年ごろには開発されていたが、近代はコンクリート・セメント需要の急増により大量に採掘されてきた。
1949年に近江鉱業が伊吹山に弥高採鉱場を開き、1951年に住友大阪セメント伊吹工場が開発工事に着手するなど、大規模に採掘が進められ、南西の稜線は山容が変貌するまでに大きく削り取られた。
1971年からは住友大阪セメント伊吹工場によって南西斜面の緑化活動が始められ、2003年に同社が滋賀鉱産株式会社に事業を引き継いだ現在も続けられている。
鉱山としては現在も近江鉱業および滋賀鉱産が稼行している。
芭蕉の行動記
織田氏、斎藤氏、織田氏と支配権が移った後、1583年(天正11年)に池田恒興が城 … 続きを読む →
奥の細道の旅を終えた松尾芭蕉が桑名行きの舟に乗った船町の川湊が国の名勝に指定された。
俳人松尾芭蕉はこの寺と湖南の人々を愛し、たびたび滞在した。 大坂で亡くなった芭蕉 … 続きを読む →
中尊寺は天台宗の東北大本山。 創建は嘉祥3年(850)に慈覚大師円仁によって開山 … 続きを読む →
金色堂の脇に建つ芭蕉の「五月雨の降のこしてや光堂(あたりの建物が、雨風で朽ちていく中で、光堂だけが昔のままに輝いている。
まるで、光堂にだけは、五月雨も降り残しているようなことではないか)」の句碑。
立石寺(りっしゃくじ)は、山寺(やまでら)の通称で知られ、古来、悪縁切り寺として … 続きを読む →
根本中堂の正面左側の石垣の上に、嘉永6年(1853年)に建立された松尾芭蕉の「閑さや岩にしみ入蝉の声」の句碑がある。
今回は仙台を中心に東北の五名城を巡ります。 まず、最初に訪れたのは松島。 仙台空 … 続きを読む →
芭蕉もやって来た日本三景の一つ松島。
松尾芭蕉は、松島を始めとして仙台藩の城や要害、関所などの主要軍事施設を回っていることから、隠密説がある。
船橋聖一の花の生涯で有名なのが詩仙堂近くにある金福寺。 この寺は864年の創建だ … 続きを読む →
庭園の東側に立つ茅葺き屋根の庵、内部は千利休が造った待庵に似た三畳台目の茶室となっている。
元禄時代に鐡舟和尚と親交の深かった松尾芭蕉が京都を旅行した際に滞在したことで知られ、周辺の住民によって芭蕉庵と呼ばれるようになったが、後に形がないほど荒廃したために、芭蕉を敬慕する与謝蕪村とその一門によって、1776年(安永5年)再興された。
東側の御堂筋は、北御堂と南御堂(真宗大谷派 難波別院)を繋ぐ道であることに由来す … 続きを読む →
俳聖松尾芭蕉は 南御堂の門前にあった花屋仁右衛門( はなやにえもん)の離れ座敷で元禄七年(1694年)10月12日 午後4時頃、去来、基角など10名も門人に見守られ51歳で亡くなった。
南北朝、戦国争乱の城と恋物語 金ヶ崎城址
金ヶ崎城は敦賀市北東部、敦賀湾に突き出した海抜86メートルの小高い丘(金ヶ崎山) … 続きを読む →
芭蕉翁鐘塚
1690年8月江戸時代の俳人 松尾芭蕉は『おくのほそ道』の旅で敦賀を訪れた。
芭蕉は敦賀での仲秋の名月を楽しみにしており、いくつかの月の句を詠んでいる。
月清し遊行のもてる砂の上 名月や北国日和定なき
早朝 住吉大社
夜明けの住吉公園。 この橋は、大正初期の大改修(大正7年~8年)に造られ、唯一当 … 続きを読む →
「升買て 分別かはる 月見かな」と刻まれた、俳人・松尾芭蕉の句碑。
芭蕉は元禄7年(1694)9月、大坂で派閥争いをしていた2人の門人を仲裁するために故郷伊賀上野から奈良をすぎ暗峠を越えて来坂した。
13日に、住吉大社の宝の市神事へ参拝し、参道で売られた升を買った。
折から体調が悪かった芭蕉はその夜、招かれていた月見の句会には出席せず宿へ帰った。
その翌日の句席で「升買て……」と詠み、「自分もついつい一合升を買ってしまった。
すると気分が変わって月見より宿に帰って早く寝た方が良いような気がした」と、洒落っ気を利かして、前日の非礼を詫びたという。
その後、芭蕉は発熱下痢を伴い、大坂の花屋仁右衛門方離れ座敷に病臥、10月12日夕方、51歳の生涯を閉じた。
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