この社は、近江一の宮といわれ、長い歴史と由緒を持つ全国屈指の古社です。
祭神は、日本武尊(やまとたけるのみこと)。
日本武尊が船団を従えて海路をたどったという故事に基づいて行われる建部大社の夏祭り「船幸祭」では、神輿を乗せた船団が瀬田川を行き交い、唐橋に近付くころになると夜空に花火が打ち上げられる。
滋賀県大津市神領にある神社。
式内社(名神大社)、近江国一宮。
旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
旧称は「建部神社」。
2015年(平成27年)4月24日、「琵琶湖とその水辺景観- 祈りと暮らしの水遺産 」の構成文化財として日本遺産に認定される。
社伝では、日本武尊の死後の景行天皇46年、日本武尊の妃・布多遅比売命が神勅によって、御子・建部稲依別命とともに住んでいた神崎郡建部郷千草嶽(現在の東近江市五個荘伊野部町付近の箕作山)の地に日本武尊を「建部大神」として祀ったのが創建とされる。
建部郷の「建部」の名は日本武尊をしのんで名代として名付けられたことに因むといい、他にも各地に設けられている。
のち、天武天皇4年(675年)に近江の守護神として、現在地の栗太郡勢多へ遷座したという。
遷座後、元の千草嶽の麓には神護景雲2年(768年)に聖真大明神と建部大明神が設けられたとされ、現在は建部神社が建てられている。
源頼朝が平治の乱に敗れて伊豆国に流される道中、本社に立ち寄って源氏の再興を祈願、後に大願成就したことから、出世開運の神としても著名となった。
征西を命じる
天皇の命令で、皇子の小碓尊が熊襲征伐のため派遣されることになりました。
この時小碓尊(兄に代わり天皇の後継者となっていたので「尊」をつけています)はまだ16歳でした。
各地の敵を従えながらやがて相模国(現在の神奈川県)に辿り着いたときのことです。
この地の国造(くにのみやつこ:地方を治める官職の一種)は、言葉巧みにヤマトタケルノミコトを野に誘い出し、火を放ち殺そうと企みます。
騙されたことを知り、進退きわまったヤマトタケルノミコトは火打石を取り出します。
そして草薙剣を抜き辺り一帯の草を薙ぎ払い、火打石で向かい火を放ちます。
炎は逆方向に燃え広がり、ヤマトタケルノミコトは無事に生還。
国造らをすべて斬り滅ぼし、さらに火を放ちました。
この出来事が、草薙剣と言う名の由来になったと言われています。
オトタチバナヒメの入水
ヤマトタケルの一行は走水(はしりみず=現在の浦賀水道)に赴いたとき、海が荒れ、動くことができなくなった。
同行してきた后の弟橘媛(オトタチバナヒメ)が海神の怒りを鎮めようと自ら入水。
これによりヤマトタケル一行は難を逃れたのだった。
ヤマトタケルと伊吹山の神
「日本武尊が東征から都(当時は大和の国)に帰る途中、伊吹山の魔物(豪族)を征伐するために伊吹山に来てみると、伊吹山を幾重にも大蛇が取り巻いていた。
そこで日本武尊は大蛇を跨いで通り抜けようとした時、毒気に当たって高熱を出して倒れてしまった」とあります。
毒気とは伊吹山に生息するトリカブトだと考えられています。
雲上の楽園「伊吹山」
滋賀県と岐阜県の県境にある伊吹山地主峰の標高1,377mの山。 滋賀県最高峰の山 … 続きを読む →
【伝説】日本武尊(やまとたける)が東の国征伐から帰る途中、伊吹山に荒神がいることを聞き・・・・・・
ヤマトタケルと白鳥伝説
大和朝廷全国統一のために命令を受け西方と東方に遠征、勝利を収めたが、帰途に伊勢の能褒野で没した。
ヤマトタケルは白鳥に姿を変え、大和に向かって飛び立った。
琴弾原(奈良県御所市付近)に降り立ったあと再び飛び立ち、河内の旧市邑(羽曳野市古市付近)に舞い降りた。
神門
明治2年(1869)膳所城城門の一つを移して神門とするが、昭和9年(1934)の台風で倒壊。
その後再建された。
拝殿
伊勢神宮遙拝所
近年人気なのは瀬田シジミ型の絵馬。
貝殻の内側に願いを書き、閉じて奉納するため願い事が他人に見られません。
絵馬を奉納する絵馬所は夜になると照明と相まって金色に輝きます。
なお、夜に参拝できるのは正月や船幸祭などの限られた日のみです。(通常17時閉門)
菊花石(きっかせき)は、菊の模様が浮き出た不思議な石です。
本殿の裏にあり、自然に菊の模様が浮き出たという珍しい石です。
特別天然記念物に指定されていて、病気平癒や長寿のご利益をいただけるそうです。
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