住吉大社界隈梅雨期に散策

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住吉公園の潮掛道(住吉大社旧表参道)大阪府営公園としては浜寺公園とともに1873年に指定され、大阪で一番歴史のある公園となっている。

今は完全に内陸の市街地だが、かつては、住吉公園の少し西側を走る阪神高速15号堺線あたりまで海が迫っていた。

この海に面した住吉大社の社前の風景が、日本の美しい風景の典型とされる白砂青松の原景である「住吉模様」の地。

また鎌倉時代の元寇の時は、蒙古撃退のための住吉大社による住吉大神への「浜祈祷」は、住吉公園の前に広がっていた住吉の浜で行われた


国道26号に面した所に立つ高灯篭は、住吉大社の灯篭で、鎌倉時代創建の日本最古の灯台とされる。

現在の高灯篭は1974年に場所を移して復元されたものであり、元は200メートルほど西方にあった
。2005年(平成17年)に内部を改装し、史料館となっている。一般開放は毎月第1・第3日曜の10時~16時。
現在の高灯籠 国道26号線交差点北西角にあり


この碑は南海電車住吉大社駅周辺の整備を記念し、併せて青年達に夢とロマンを抱いてほしいと念願して、同駅西側に昭和57年1月建立しました。

このリレーフは、源氏物語澪標の巻きに描かれた有名な光源氏の住吉詣の情景を絵画化したもので、人々に囲まれた牛車の横に立つ衣冠姿が光源氏、右上の舟が明石上の舟であります。


(源氏物語「澪標図」)

「源氏物語」第十四帖「澪標」を題材にした本作には、中央に住吉大社を参詣する光源氏の牛車と華々しい一行があり。

右奥の海に明石君が乗る船が浮かぶ。

左端上に住吉大社の象徴である反橋があり、手前に鳥居が描かれている。

物語では源氏に遭遇した明石君は、身分の違いを思い知り、参詣せずに浜を去ってしまう。



松尾芭蕉は元禄七年来阪し、住吉大社の宝之市神事に詣でて、その足で門前の升の市に立ち寄りました。

ところが病になり、すぐに難波の弟子の家に帰り病床に伏せました。その時に他の弟子に送った句が、明治元年に大阪の俳句結社浪花月花社が住吉公園内に句碑を建立されました。

ただ汐掛道の道路脇に、句碑だけが勃然と立っていて目立たない存在でしたので、財団法人住吉名勝保存会の手によって、句碑を竹垣で囲み説明の銘板を建てて整備いたしました。

  芭蕉の句  『升買て 分別かはる 月見かな』
旅に病んで 夢は 枯野を かけめぐる 「 此附近 芭蕉翁終焉の地 」という記念碑が 御堂筋の緑地帯の中あった。 南御堂前の御堂筋緑地帯に「花屋仁左衛門宅跡」がある。

住吉大社は昔から海上や航海の安全を祈願する船主、船乗り、海運関係者などから深い信仰を受けてきた。

知る人ぞ知る「海での守り神」として 崇められてきた。
さて、表参道の入口に建つ鳥居の手前には「遣唐使進発の地」の碑が建つ。

遣唐使は630年に第一回派遣、以後18回にわたり派遣されたが、894年の第19回の派遣は菅原道真の建議により中止された。

伝説によると・・・

源頼朝に仕えていた丹後局(丹後内侍)が頼朝の子を身籠もると、怒った北条政子は畠山重忠に殺すよう命じた。

重忠は家臣の本多次郎近常(親恒)に命じて丹後局を由比ヶ浜に誘い出すが、殺すことはできず、身代わりを立てて逃がしたのだという。

そして、丹後局は摂津国住吉に辿り着き、無数の狐火に導かれて住吉大社に至ったのだという。

社頭で産気づいた丹後局は、傍らの大石を抱きながら男児を出産。

のちに頼朝は、その子に薩摩・大隅二か国を与えた。

それが島津氏の祖・島津忠久なのだとか。

忠久の「忠」は、畠山重忠の一字を与えられたのだとも伝えられている。

※ 丹後局(丹後内侍)は、頼朝の乳母を務めた比企尼の長女。
※ 忠久の妻は畠山重忠の娘と伝えられている。

島津忠久の生年は不明だが、1185年(元暦2年)6月15日の頼朝の下文によると伊勢国波出御厨の地頭に補任されている。

したがって、これ以前より頼朝に仕えて活躍していたことになるので、北条政子の嫉妬云々という説には時代的に無理がある。

ただ、『島津系図』によると、忠久の母は比企能員の妹丹後局となっていることから、父親が頼朝かどうかは別として、丹後局が産んだ子であるという説はあり得るのかもしれない。

また、『吉見系図』によると、丹後局は二条院に仕えていた頃に惟宗広言と通じて忠久を産んだとされ、上記の下文の宛名も「惟宗忠久」となっている。

通称で「太鼓橋」とも呼ばれる。
橋の長さは約20m、幅は約5.8mの木造桁橋である。
橋中央部の高さは4.4mで、中央部を頂点として半円状に反っている。
最大傾斜は約48度となっている。
地上と天上を結ぶ虹に例えられていたため、橋が大きく反っている構造になっていると考えられている。

橋は浪速の名橋50選に選定されている。
また夜間ライトアップも行われていて、関西夜景百選にも選定されている。

橋は川端康成の小説『反橋』(1948年発表)の舞台となった。
橋の南東には、『反橋』の一節が刻まれた川端康成の文学碑が設置されている。
「反橋は上るよりもおりる方がこはいものです。私は母に抱かれておりました。」という、川端康成の作品『反橋』の一節が本人の自署とともに記されている文学碑。川端康成文学碑

「そりばし」ではなく「そりはし」が正しい名称である。

歴史
橋については慶長年間(16世紀末~17世紀初頭)に最初に造営されたと伝えられている。
造営者については、豊臣秀頼が造営したという説と、淀殿が造営したという説がある。

架橋当時は住吉大社付近に海岸線があり、本殿と対岸の入り江を結ぶ目的で架橋された橋だとされている。
現在は池の上に橋が架かっている形になっているが、この池は当時の入り江の名残だとされている。

橋の基礎部分については創建当初のものをそのまま使用していると考えられている。
その一方で、木製の橋桁や欄干は老朽化に伴って何度もかけ直され、直近の掛け替えは2009年に行われた。

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