住友銅吹所跡

大阪府
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東横堀川

土佐堀川の上流部で南へ分かれて、中央区の船場・島之内の東縁を流れる。
全長約3km。西へ向きを変えてから下流は道頓堀川となる。

1585年(天正13年)に豊臣秀吉の命により大坂城の西惣構堀として開削された、大阪市で最古の堀川である。

なお、1594年(文禄3年)の開削とする説もある。

1615年(慶長20年)に大坂冬の陣で徳川方と豊臣方が和睦する際、大坂城の惣掘の一部であるので和睦の条件の通りに埋め立てられた。

しかし、大坂夏の陣で大坂城が落城するとすぐに掘り返され、ほぼ同時に堀止から西へ道頓堀川が開削され、1622年(元和8年)には末吉橋の下流側から西へ長堀川が開削された。

九之助橋は江戸時代初期には既に架けられていた。

橋の西側は九之助町で、このあたりには銅吹所を始め、鋳物屋、鍛冶屋などが多く、工業の町という印象が強かった。
町名や橋名の九之助は関係者の人名につながるようだが、その由来は不明である。

町橋であったため、橋筋の町を中心に町々からの醵出金によって維持されてきた。

興業の街らしく、欄間には町工場の様子が仕込まれている。

九之助橋は大正15年、第1次都市計画事業で、鋼アーチ橋になった。

東横堀川にはアーチ橋が多いが、鋼製とコンクリート製がほぼ交互に並んでいる。
これは偶然ではなく、設計担当の意志が働いていたと考えられる。

住友銅吹所跡

泉屋は元和?年(1623)に大坂・内淡路町に銅吹所を開設。

元禄3年(1690)に本店・居宅を同地に移転し、明治まで続いた。

当時の幕府高官やオランダ人もよく視察に訪れたといいます。

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銅吹所の炉

レプリカのミニチュア銅橋

明治初年、経営が極度に悪化していた住友を救った広瀬は明治12年(1879)、大阪鰻谷の住友本邸に別子産銅で製作した銅橋をかけ「事業は石橋を叩いて渡るがごとく、確実を旨とすべし」と家長以下自らも戒めていた。

元住友家本邸内ビリヤード場(玉突場)

明治9年(1876)に銅吹所廃止後に敷地は住友家の邸宅となりました。
明治12年(1879)には洋館や庭園がつくられ、ビリヤード場はその東側に建てられました。

文明開化期に多くみられる「擬洋風様式」で、ビリヤード場玄関のアーチや円柱飾りは洋風ですが、壁は土蔵造り、屋根は瓦葺きで、洋風と和風とが混在しています。

明治25年(1892)以前の建築と考えられており、独立建物のビリヤード場としては、わが国最古のものです

この地の銅吹所は明治9年(1876)に閉鎖されるが、銅吹所のあった東半分(冒頭写真の左側が銅吹所、右半分は西側の邸宅、手前の北側は長堀川)は日本庭園として整備しなおされ、後に天王寺茶臼山に移されるまでは住友家の本宅として機能していた。

茶臼山に本宅が移されてからは、昭和20年(1945)まで別邸として存在した。

その後、住友銀行社員寮跡地であったこの地に、銀行事務センターの建設計画が持ち上がり、平成2年(1990)から平成5年(1993)にかけて発掘調査が行われた。

そこからは、100基を超える精錬炉、棹銅、住宅で使われていた高級陶磁器など、数多くが出土した。

このことにより、かつてここで大規模な銅の精錬が行われていたことが明白になったのである。

いずれにしても、この地は寛永13年(1636)に泉屋(住友)理兵衛(第2代友以)が銅吹所を開設して以来、泉屋にとって家業の基礎を築き、繁栄させた大切な場所である。

三井住友銀行事務センター

かつての銅吹所は、約10階建ての事務センターになっている。
右端が史跡公園。

ジオラマで摂河泉の中世都市を見る
大坂の商業の中心船場は、人々の暮らしの場でもありました。 このジオラマは、安政年 … 続きを読む →


今日のお昼は「いなり家こんこん」

小ぶりの創作いなり寿司が四種四個

「ちりめん」・「ひじき」・「タコ」・「えび」でしょうか?

メニュー表にのっていなかった「おでん」
「小鉢」

最後にコーヒー、これで800円、やすいね。

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